関東ぶらりん旅

神社仏閣、B級スポット、ご当地グルメを楽しむ旅(散歩)

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不忍池辯天堂(東京都台東区) ~上野公園の寺社をめぐる旅 8/9~

【2020/11/07 ぶら旅コース】
寛永寺開山堂(両大師)/輪王寺 上野東照宮東照宮第一売店上野大仏花園稲荷神社五條天神社不忍池辯天堂清水観音堂
【コースMAP:鶯谷駅~上野駅(※実際の徒歩ルートと異なることがあります)】

不忍池

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不忍池ゾーンに入りました。

 

 

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見ての通り、蓮の名所として知られる池です。

花の時期はとっくに終わり、池一面はハスの葉に覆われていましたが、

このグリーンもとてもきれいです。

 

 

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緑の水面にぽっかりと浮かぶお堂は、不忍池辯天堂。

花の時期はリアル曼荼羅を見ているような、幻想的な景色が広がることでしょう。

 

 

不忍池辯天堂

 参道

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辯天堂の参道は、いつも屋台が出ていて賑やか。

やきとりや串焼きなどのいい香りが漂います。

 

現在は歩いてお堂まで行くことができますが、

大昔は橋が架かっておらず、船に乗って参拝に行っていたそうです。

 

 

 手水舎

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手水鉢には、女性の神様らしくお花が飾られていました。

こちらの手水舎では、天井にも注目です。

龍を描いた水墨画が見ることができます。

 

 

 本堂

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【御本尊】
辯才天(べんざいてん)

【御由緒】
寛永2年(1625年)天海僧正は、比叡山延暦寺にならい、上野台地に東叡山寛永寺を創建した。不忍池は、琵琶湖に見立てられ、竹生島に因んで、常陸(現茨城県)下館城主水谷勝隆が池中に中之島弁天島)を築き、さらに竹生島宝厳寺の大弁才天を勧請し、弁天堂を建立した。
当初、弁天堂へは小船で渡っていたが、寛文年間(1661~72年)に石橋が架けられて、自由に往来できるようになり、弁天島は弁天堂に参詣する人々や行楽の人々で賑わった。
弁天堂は、昭和20年の空襲で焼失し、昭和33年9月に再建された。弁天堂本尊は、慈覚大師の作と伝えられる八臂の大弁才天、脇侍は毘沙門天、大黒天である。
本堂天井には、児玉希望画伯による「金竜」の図が画かれている。また、本堂前、手水鉢の天井に、天保3年(1832年)と銘のある谷文晁による「水墨の龍」を見ることができる。
大祭は、9月の巳の日で、巳成金(みなるがね)という。
(出典:境内案内板)

提灯の門をくぐると拝所になります。

 

寛永寺延暦寺滋賀県)にならい造られたとありましたが、

この不忍池は琵琶湖を模しているということです。

辯天堂がある島が竹生島ということでしょうか???

御本尊を勧請したと言われる竹生島宝厳寺の弁財天は、

日本三弁財天に数えられています。

 

  

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弁才天は芸能の神と言われるだけあり、提灯には著名人の名前もちらほら・・。

 

 

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本堂の前には、宇賀神様もいらっしゃいます。

優しい笑顔。

 

 

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お堂の裏手に回ると、辯天堂は本堂と拝所に分かれていることがわかります。

辯天様が安置されている本堂は、八角形の形をしていました。 

これは「不忍池のどこからでもお参りができるように」という意味があるそうです。

 

ちなみに、安置されている辯天様は八臂タイプ。

よく目にするような琵琶を弾くお姿とは違い、

体から出た数本の手に様々な宝や道具を持っています。

 

 

大黒天堂

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【大黒天堂とは】
このお堂は、豊臣秀吉が大切に護持したと伝わる大黒天が祀られる、東叡山寛永寺天台宗)の伽藍の一つです。
大黒天はもともとインド古来の「マハーカーラ」という戦争の神、時間を支配する恐ろしい神と考えられてきました。やがて日本に仏教が伝わり、民間信仰の対象となってからは、日本古来の福神の大国主命と同体である(大黒と大国は同音であるため)という考えが生まれて武神から福神へと変化し、広く親しまれるようになりました。打ち出の小槌や米俵に乗って福袋を担ぐお姿で知られる大黒天の御利益は、開運招福や家門繁栄、富貴をもたらすなどであり、また寺院の食料の守護神として祀られるようになりました。この大黒天堂は太平洋戦争で焼失しましたが、ご本尊の大黒天は安泰で、昭和43年に旧位置に再建されました。

【大黒様の縁日「甲子(きのえね)」】
大黒天の縁日である「甲子の日」は、毎日に干支を当てはめると最初に当たる日です。そのため物事をはじめるのに縁起を担ぐ習慣が昔からあり、大切にされてきました。
また大黒天が食料の守護神とされたことから、鎌倉時代にはその使いが鼠(ねずみ)と考えられるようになりました。子(ね)を鼠と結びつかせ、鼠を大黒天の使者とみなして甲子の日に大黒天祭(甲子祭)が行われ、甲子侍(かっしまち)と言って子の刻(23時頃)過ぎまで起きて大豆、黒豆、二股大根などをお供えし、大黒天を祀るという習慣に通じました。

【辯天さまと大黒さま】
辯才天を祀る辯天堂の境内になぜ大黒天が祀られているのでしょうか。これは、大黒天と毘沙門天辯才天が合体した「三面大黒」にその淵源を探ることが出来ます。
大黒天は「食料や富を授ける」、毘沙門天は「武力や勇気を授ける」、辯才天は「美や才能を授ける」福神とされ、6本の手には衆生を救済し福徳を授けるとされる様々な道具も持っており、合体することでよりご利益が増えると考えられました。この三面大黒を最初に信仰されたのが日本天台宗の宗祖である伝教大師最澄さまであり、また豊臣秀吉公も出世を願って三面大黒を信仰したことで「豊太閤」となったと伝えられています。
(出典:境内案内板)
 
 

石碑群

 琵琶

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不忍池辯財天は、変わった石碑・慰霊塔があることでも知られます。

本堂の前には、弁財天のシンボルである琵琶。

 

 

 めがね之碑

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中央のめがねは、徳川家康が愛用していたもの。

 

 

 暦塚

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全国団扇扇子カレンダー協議会の会員により建立。

 

 

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日時計の文字盤がデザインされています。

 

 

 魚塚

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東京魚商業協同組合により建立。

組合創立50周年を機に、水揚げされた魚のために建てられた慰霊塔です。

 

 

 ふぐ慰霊碑

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東京ふぐ料理連盟が、ふぐの霊を供養するため建立。

 

 

 スッポン感謝之塔

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滋養、食材のため命を落としたスッポンに感謝する塔。

 

 

 鳥塚

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東京食鳥鶏卵商業協同組合・東京都食鳥肉販売環境衛生同業組合により建立。

 

 

 包丁塚

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上豊調理師会により建立。

 

 

 扇塚

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日本舞踊家、初代花柳寿美の舞扇を納めた碑。

 

 

 いと塚

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三味線や琴などに使われた糸に対する感謝の意を込めた塚。

 

 

 櫛淵碑

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一橋徳川家に召抱えられ、以後3代にわたり徳川将軍直々の護衛役として仕えた、

櫛淵彌兵衛宣根の碑。

 

* * *

 

けっこうな数の石碑を紹介したつもりでしたが、他にもまだあるようです。

とてもユニークなものばかりなので、じっくり見て回るのも楽しいですね。

 

 

御朱印

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最後に御朱印です。

こちらは、辯才堂のもの。

 

 

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こちらは、大黒天堂のものです。

 

 

 

 

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不忍池辯天堂】
所在地:東京都台東区上野公園2-1
アクセス:JR「上野駅」より徒歩5分
御朱印:有
オリジナル御朱印帳:有
駐車場:無
(※2020年11月7日付けの情報です。)

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上野大仏(東京都台東区) ~上野公園の寺社をめぐる旅 5/9~

【2020/11/07 ぶら旅コース】
寛永寺開山堂(両大師)/輪王寺 上野東照宮東照宮第一売店上野大仏花園稲荷神社五條天神社不忍池辯天堂清水観音堂
【コースMAP:鶯谷駅~上野駅(※実際の徒歩ルートと異なることがあります)】

上野大仏

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もんじゃまんでエネルギーをチャージして巡礼再開。

後半戦は、上野大仏からスタートです。

 

ところで、上野に大仏様がいらっしゃったことをご存じでしょうか?

私は幼い頃から何度も上野公園を訪れたことがあるにも拘らず、

寺社めぐりを始めるまでその存在を知りませんでした。

 

園内でも人通りの多い道沿いに鎮座しているのですが、

仏山という小高い丘の上に鎮座していることや、

大道芸などで通りが賑わっていることもあってか、

なかなか気付き難い場所だったりするのかもしれません。

 

しかし、上野公園に来たのなら、ここは是非見ていただきたいスポットです。

なぜなら、上野の大仏様はとても変わったお姿をしているからです。

 

 

 門

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階段を上り、大仏山の山頂へ。

 

 

 上野大仏

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門を入るとすぐ、大仏様は姿を現します。

 

 

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【御本尊】
釈迦如来(しゃかにょらい)

【御由緒】
この大仏は寛永8年(1631年)、越後国村上城主であった堀丹後守直寄公がこちらの高台に、戦乱に倒れた敵味方の冥福を祈るために建立した「釈迦如来」です。京都・方広寺の大仏に見立てられ、当初は漆喰で作られましたが、明暦・万治の頃(1655~1660年)木食浄雲(もくじきじょううん)という僧侶により高さ6メートルの銅仏に改められました。
また元禄11年(1698年)には輪王寺宮公弁法親王により大仏殿が建立され、伽藍が整いました。しかし大仏は江戸時代以来、地震や火災といった災難に何度も見舞われました。幕末の上野戦争では辛くも被害を免れましたが、明治6年に大仏殿が解体され、さらに大正12年関東大震災でついにお顔が落ちてしまったのです。
その後、寛永寺で保管された大仏は再建される計画もありましたが、残念ながら復元されることなく、お体は第二次世界大戦時に供出されてしまいました。昭和47年春、再び旧地に迎えられた大仏は、建立当時より大きくお姿を変えましたが「これ以上落ちない合格大仏」として広く信仰を集めています。
(出典:境内案内板)

なんと!

上野の大仏様は、お顔のみのお姿をしているのです!!

 

なぜ、このようなお姿になってしまったのか?

別の案内板にその詳細が書かれていたので、簡単にまとめてみました。

寛永8年:越後村上藩主 堀直寄により釈迦如来像造立

正保4年:地震により倒壊

明暦~万治年間:木食僧浄雲により釈迦如来坐像を造立

元禄11年:輪王寺宮公弁法親王により大仏殿を建立

天保12年:火事により大仏・大仏殿ともに損傷

天保14年:堀直寄の子孫 直央が大仏、幕府が仏殿を再建

安政2年:大地震により大仏の頭部が倒壊、間もなく堀家により修復される

明治6年:上野公園開設の際に仏殿取り壊し(同9年、10年という説有り)

大正12年関東大震災で大仏の面部が落下

第二次世界大戦時:金属類回収令により大仏の胴体と脚部を国へ供出

昭和47年:大仏の面部をレリーフ状に奉安

関東大震災での倒壊後、昭和15年に開催予定だった東京オリンピックに向けて、

再建計画が持ち上がっていたそうです。

ですが、戦争によってどちらも幻となってしまいました。。。

 

仏様というものは、平和や安全を願って建立されることが多いと思いますが、

まさか、仏様自身が戦争に利用されてしまうとは・・・何とも悲しいお話です。

 

 

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現在は、幾度の災難を乗り越えた大仏様の経緯から「これ以上落ちない」と、

「合格大仏」と呼ばれ受験生に人気だそうです。

 

 

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祭壇には、大仏様の全身の写真がありました。

 

 

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よく見ると、唇の赤みが少し残っています。

それにしても、螺髪があるかないかでだいぶお顔の印象が変わりますね。

現在の方が、穏やかな表情に見えました。

 

 

 大仏殿

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境内案内板には、大仏殿の写真も掲載されています。

 

 

 パゴダ

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大仏殿の跡地には、パゴダ(ミャンマーの仏塔という意味)が建っています。

中には寛永寺と同じ薬師如来、脇侍に日光・月光菩薩が安置されています。

この仏像は、東照宮内にあった薬師堂に安置されていたもの。

仏様は撮影禁止ですが、そのお姿を拝見することは可能です。

 

 

御朱印

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上野大仏の御朱印

 

 

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パゴダの御朱印

御朱印は、清水観音堂で書置きのみいただけます。

 

 

 

 

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【上野大仏】
所在地:東京都台東区上野公園4-8
アクセス:JR「上野駅」より徒歩7分
御朱印:有
オリジナル御朱印帳:有
駐車場:無
(※2020年11月7日付けの情報です。)

開山堂(両大師)/輪王寺(東京都台東区) ~上野公園の寺社をめぐる旅 2/9~

【2020/11/07 ぶら旅コース】
寛永寺開山堂(両大師)/輪王寺 上野東照宮東照宮第一売店上野大仏花園稲荷神社五條天神社不忍池辯天堂清水観音堂
【コースMAP:鶯谷駅~上野駅(※実際の徒歩ルートと異なることがあります)】

輪王寺

 山門

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寛永寺根本中堂から徒歩7~8分、輪王寺へ向かいました。

都内で唯一の、門跡寺院です。

寛永寺のお寺のひとつで、一般的に「開山堂」「両大師」などと呼ばれています。

 

日光にも3代家光公が眠る輪王寺がありますが、

上野の輪王寺も日光の輪王寺も江戸時代は正式な寺号ではなく、

東叡山(寛永寺)と日光山(満願寺)両山の山主であった、

輪王寺宮法親王の称号から取られた名だったそうです。

正式に寺号と認められたのは明治に入ってからとのことでした。

 

 

 本堂

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【御本尊】
阿弥陀如来(あみだにょらい)
慈眼大師天海大僧正(じげんだいしてんかいだそうじょう)
慈恵大師良源大僧正(じえだいしりょうげんだいそうじょう)

【宗派】
天台宗

【御由緒】
當堂には寛永寺開山慈眼大師天海大僧正と大僧正が尊崇された第18代天台座王慈恵大師良源大僧正を祀る。
天海大僧正は本坊内に慈恵堂を設けておられたが、やがて大僧正の入寂後に建立された。
開山堂に慈恵大師を合祀したため「両大師」と呼ばれる様にになった。
ここに、慈眼大師350回の御遠忌を迎え両大師堂を始めとする寺観を一新すると共に新たに輪王殿を建立し、以て報恩の一端に擬するものである。
(出典:境内案内板)

 ひとつの場所にいくつもの呼び名があるのでごっちゃになってしまいますが、、

輪王寺に建立したお堂が、

寛永寺を開山した慈眼大師天海大僧正をお祀りすることから「開山堂」、

後に慈恵大師良源大僧正を合祀したことで「両大師」と呼ばれるようになった。』

ということですね。

 

ちなみに、慈恵大師良源大僧正は『おみくじ』の創始者なのだそうです。

当時のおみくじも現在のおみくじとさほど変わらない形だったようです。

 

 

 天海僧正毛髪塔

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上野公園内(西郷像の近く)には、天海僧正の毛髪を納めた供養塔、

天海僧正毛髪塔があります。

 

 

 阿弥陀堂

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阿弥陀堂には3体の仏様が安置されています。

 

 

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左から、地蔵大菩薩阿弥陀如来虚空蔵菩薩

堂内が狭いのか、なかなかの密っぷりです。

写真で表現できずに残念ですが、実物を目の当たりにすると、

押し迫ってくるような迫力を感じます。

 

 

 地蔵堂

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 宝塔

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 大賀ハス古代蓮

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御本堂の前には、大賀ハスの池があります。

大賀ハス古代蓮の一種で、2000年以上前の蓮の種が発芽したもの。

・・・時期が遅すぎましたね。

 

 

 御車返しの桜

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同じ木から一重と八重の花が咲く、珍しい桜。

後水尾天皇輪王寺宮の父)が京都の常照皇寺に花見に行かれた際に、

その桜があまりに美しかったので、

帰り道に牛車を戻して再びご覧になったことから、

『御車返し』の名がつきました。

 

花の見ごろはソメイヨシノより少し遅い時期だそうです。

この桜は是非見てみたいですね。

来年の春にでも再訪したいと思います。

 

 

 旧本坊表門

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開山堂を見学後、お隣の輪王殿へ。

輪王殿は、寛永寺の斎場です。

 

 

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輪王殿の手前には、黒く大きな門が建っています。

 

 

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こちらが、旧本坊の表門。

根本中堂の境内にあった鬼瓦の持ち主です。

 

旧本坊は現在の東京国立博物館の地にありましたが、上野戦争の際に焼失。

この表門のみ戦火を免れました。

 

 

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屋根を見上げると、先ほど見た鬼瓦がありました。

 

 

御朱印

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御朱印は御本堂内でいただけます。

前回は直に書いていただいたのですが、現在は書置きのみのようです。

この他に、両大師それぞれのお名前が書かれた御朱印も増えていました。

2回目の御朱印ならば、そちらをいただけばよかったですね。

なぜか、前回と同じものをいただいてしまいました。。

 

 

 

 

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【開山堂(両大師堂)/輪王殿】
所在地:東京都台東区上野公園14-5
アクセス:JR「鶯谷駅」「上野駅」より徒歩8分
御朱印:有
オリジナル御朱印帳:不明
駐車場:有(輪王殿)
公式サイト:http://kaisando.kaneiji.jp/(開山堂)
(※2020年11月7日付けの情報です。)

寛永寺(東京都台東区) ~上野公園の寺社をめぐる旅 1/9~

【2020/11/07 ぶら旅コース】
寛永寺開山堂(両大師)/輪王寺上野東照宮東照宮第一売店上野大仏花園稲荷神社五條天神社不忍池辯天堂清水観音堂
【コースMAP:鶯谷駅~上野駅(※実際の徒歩ルートと異なることがあります)】

上野恩賜公園

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上野公園に行ってきました。

上野公園というと、動物園をはじめ美術館・博物館が多く点在し、

春は桜の名所としても有名です。

 

そんな上野公園ですが、実は神社仏閣が集まる場所でもあり、

園内だけで10枚以上の御朱印を入手することができるという、

御朱印コレクターにとっても嬉しいスポットなんですね。

 

しかし、公園内といってもかなりの広さです。

私は4~5年前にも巡拝しているのですが、当時は下調べせず行ってしまったので、

ムダに行ったり来たり・・・。

なので今回は、スムーズに参拝できるコースを作り再訪問してみました。

 

 

寛永寺

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上野公園の最寄り駅は上野ですが、お隣の鶯谷からスタートします。

 

 

山門

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まずは、鶯谷駅から徒歩8分の場所に鎮座する、寛永寺へ。

上野公園からすぐの場所なのですが、上野恩賜公園公式MAPから外れているので、

厳密に言うと園内ではない・・・のかもしれません。

しかし、上野公園内の寺社を巡るには欠かせないお寺なので、お参り必須です。

 

 

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というのも、現在上野公園となっている敷地は、もともと寛永寺の境内。

今回のぶら旅コースで訪れた寺院は、すべて寛永寺のお堂なのです。

 

 

 根本中堂(本堂)

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【御本尊】
薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)

【宗派】
天台宗

【御由緒】
東叡山寛永寺は、寛永2年(1625年)に、幕府と万民の平安・安泰を祈る祈願寺として、慈眼大師天海大僧正によって創建されました。山号は「東の比叡山」の意、寺号は寛永年間に創建されたことによります。
後には、第四代将軍・徳川家綱公の霊廟が造営され、将軍家の菩提寺も兼ねることとなりました。また東叡山主に皇族(輪王寺宮)を迎え入れたことにより、江戸時代の寛永寺は格式と規模において我が国屈指の大寺院となりました。
しかし幕末の上野戦争で被災し、敷地の大部分は明治初期に上野公園となりました。太平洋戦争後は新たに霊園を造営し広くお檀家を受け入れるなど、伝統を守りながらも多くの人々に親しまれ今日に至っています。
(出典:寛永寺パンフレット)

寛永寺は、江戸城の鬼門除けとして建立されました。

『東叡山』という山号を持ち、それには「東の比叡山」という意味があります。

これは京都御所の鬼門に位置し、朝廷の安穏を祈る鎮護国家の道場であった、

比叡山延暦寺にならったもの。

寺号も延暦寺と同様、創建時の元号を使用しています。

この後訪れるお堂にも、京都の寺院を模したものがあります。

 

創建時の本堂は、上野公園の大噴水のあたりにあったといいます。

上野戦争で焼失後、川越喜多院の本地堂を現在の地に移築。

寛永寺の本堂として再建されたそうです。

 

www.mi-cha34.com

この本堂が、喜多院のお堂だったとは!!

喜多院には、本地堂跡を記す碑があるそうなのですが、、、

以前参拝に訪れた時はまったく気づきませんでした。

 

 

 勅額

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本堂に掲げられた勅額は、第113代天皇東山天皇による宸筆のもの。

 

お寺の方がこの額にちなんだお話をしてくださいました。

上野戦争で本堂を焼失しているにも拘らず、焼け跡ひとつないこの勅額。

なぜ、このような綺麗な状態で残ったのでしょうか・・・?

なんと、本堂焼失以前は、レプリカを掲げていたのだそうです。

それではなぜ、レプリカを???

この勅額が京都から寛永寺に届いた日、江戸で火事が起こりました。

火の手は新橋から上野方面まで広がり、寛永寺も被災。

根本中堂は辛うじて免れることができたそうです。

(その火事は「勅額火事」「中堂火事」と呼ばれています。)

当時、江戸では火事が多発したことから勅額の焼失を恐れ、倉で保管することに。

その代わりにレプリカが造られ、掲げられていたそうです。

 

私:火事がなければ戦争で焼けていたかもしれないんですね。

寺:そうよね!とにかく、焼けたのは偽物!今あるのが本物!よく見て行ってね!

 

 

 銅鐘

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厳有院殿(4代将軍家綱)の一周忌に、厳有院殿廟前の鐘楼に奉献されたもの。

明治維新後、この地に移築。

 

 

 鬼瓦

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旧本坊表門・根本中堂の鬼瓦。

 

 

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旧本坊表門の鬼瓦。

高さ113㎝。

旧本坊は、現在の東京国立博物館の地に建てられていましたが、

上野戦争で焼失しています。

表門のみ現存しており、輪王殿で見ることができます(後ほど紹介)。

 

 

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お隣に並ぶのは、根本中堂の鬼瓦。

高さが旧本坊の鬼瓦の倍以上、248㎝もあります。

 

 

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屋根の上でも存在感がありますね。

 

 

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鬼瓦を見ようと屋根を見上げたら、屋根の上で跳ねる獅子の姿を発見しました。

そして、写真を見て気づいたのですが、瓦に『寛永寺』って書いてある???

(写りが悪くてわからない・・・)

 

 

 慈海僧正墓

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東叡山凌雲院の住職の墓。

凌雲院に東京文化会館が建設されることとなり、根本中堂に移動。

 

 

 了翁禅師塔碑

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江戸時代前期の黄檗宗の僧、了翁禅師の座像。

薬屋を営み、その利益で難民救済や寛永寺に図書館の設置などを行うなど、

その業績を称え造られた顕彰碑。

ご本人の生前に造られたものとのことですが、、、

この塔も別の場所から移築されており、元の場所や移築時期は不明だそうです。

 

 

 虫塚碑

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伊勢長嶋藩主増山雪斎が、

写生図譜『虫豸帖(ちゅうちじょう)』の作画に使った虫類の霊を慰めるため、

雪斎の遺志により建てられた塚。

 

 

 尾形乾山墓碑・乾山深省蹟

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画家 尾形乾山の顕彰碑。

 

 

 上野戦争碑記

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石板にびっしりと刻み込まれた文字はすべて漢字で解読不能でした。。

 

 

 地蔵郡

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水子地蔵でしょうか???

誰が置いたのか、お地蔵様は皆、どんぐりを持っていました。

 

 

歴代将軍御霊廟

根本中堂を出て、寛永寺の霊園の方へ。

徳川家歴代将軍御霊廟を見に行きました。

寛永寺は徳川家の菩提寺のひとつ。

歴代将軍15名の内、6名がここに眠ります。

(すぐ近くの谷中霊園には15代慶喜墓所があります。)

  • 4代 家綱(法名:厳有院)
  • 5代 綱吉(常憲院)
  • 8代 吉宗(有徳院)
  • 10代 家治(淩明院)
  • 11代 家斉(文恭院)
  • 13代 家定(温恭院)

 

『御霊廟』とは、、、

御本尊・位牌・木像を安置する本殿と拝殿を相の間でつなぐ「相の間造り」という

霊廟建築と、将軍が埋葬されている宝塔(墓所)や水盤舎などの総称です。

しかし、現存するのは、勅額門と水盤舎・宝塔のみ。

 第二次世界大戦の空襲で大部分の建造物が焼失してしまったそうです。

 

 

 常憲院御霊廟勅額門

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5代綱吉の霊廟勅額門。

その先に水盤舎があるとのことですが、非公開の為これ以上覗くことはできません。

綱吉の御霊廟には、8代吉宗・13代家定が合祀されています。

 

 

 厳有院御霊廟勅額門

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常憲院御霊廟勅額門から少し歩いた場所には、厳有院御霊廟勅額門。

4代家綱の御霊廟です。

こちらも水盤舎が残っているとのことですが、非公開となっています。

こちらには、10代家治・11代家斉が合祀されています。

 

* * *

 

1~7代将軍は、埋葬されたお寺に霊廟があるのですが、

8代吉宗が『御霊屋建立禁止令』を出したため、

以降、寛永寺増上寺のいずれかの霊廟に合祀し、宝塔のみ建立されたそうです。

 

御朱印

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御朱印は根本中堂内でいただけます。

 

* * *

 

寛永寺・・・。

火事、戦争、焼失・・・と、悲惨な言葉が連呼されたお寺でしたね。

境内の石碑やお堂を見ても、

行き場を失った者たちが身を寄せ合っているといった印象を受けました。

 

 

 

 

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【東叡山 寛永寺
所在地:東京都台東区上野桜木1-14-11
アクセス:JR「鶯谷駅」より徒歩8分、「上野駅」より徒歩15分
御朱印:有
オリジナル御朱印帳:有
駐車場:無
公式サイト:http://kaneiji.jp/
(※2020年11月4日付けの情報です。)

静勝寺・稲付城跡(東京都北区) ~DEEPな街「赤羽」のDEEPな神仏をめぐる旅 6/7~

静勝寺

 山門

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亀ヶ池から出土された弁天像が安置されている、静勝寺にも寄ってみました。

亀ヶ池弁財天の例大祭は、こちらのご住職が導師を勤めています。

 

 

 境内

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大きな木々に覆われた、とても静かで落ち着いた雰囲気の境内。

風の通りもよく、夏なんかは涼しそうですね。

 

 

 本堂

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【御本尊】
釈迦如来(しゃかにょらい)

【宗派】
曹洞宗

【御由緒】
寺伝によると当寺はもともと道灌の築いた砦(稲付城とよばれる)の跡で、道灌の禅の師匠であった雲綱が、非業の死を遂げた名将の菩提を弔うためにこの地に草庵を結び、道灌寺と名付けたのが起源で、その年は永正元年(1504年)であったとされています。
しかし、稲付城は徳川家康が江戸に移った時(1590年)まで存在し、寺となったのはその後であり、それは、おそらく寛永年中(1633~42年頃)に稲付出身の僧麟的(~1642年)が草庵を結んだのがそのはじまりと思われます。
その後、道灌6世の孫太田資宗(1600~1680年)が先祖ゆかりの地を大事にして境内を整備し、幕府やこの地の領主東叡山寛永寺にとりなして、寺域を除地(免税地)とすることを認められました。その折、資宗は山号と寺号をそれぞれ道灌と父道真の号、静勝軒および自得軒の名をとって現在のように改めました。明暦元年(1655年)のことです。
その後、太田家では代々静勝寺を援助し、また、道灌の250回忌(享保20年、1735年)には家中を挙げて静勝寺で法要を営んでいます。その折々に記念の品を奉納したり、諸堂の建立や修復が行われました。その最大の記念物が太田道灌の像であり、それを祀る影堂(道灌堂)です。
寺は明治以降太田家との縁も切れて一時さびれましたが、昭和に入ってから付近の都市化とともに復興し、檀家もふえ、諸堂も整備されて今日に至っています。
なお、寺域一帯は現在、東京都旧跡の指定をうけております。
(出典:公式サイト

戸の隙間から中を伺うと、黄金に輝くお釈迦様が座っておられました。

両脇にはこれまた黄金の脇侍、文殊菩薩普賢菩薩のお姿も見えます。

 

なんとなく、そのお釈迦様から癒しオーラを感じて。

しばらく覗き見てしまいました。

 

 

 道灌堂

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太田道灌の座像が安置された、道灌堂。

北区の指定有形文化財に指定されるその像は、

道灌の命日である7月26日にちなんで、毎月26日に開扉されます。

 

静勝寺建立以前は、太田道灌が築いたとされる砦『稲付(いなつけ)城』でした。

(調査上、道灌の築城説が有力だが、決定付けるものはない)

この地は小高い山になっており、当時、亀ヶ池はお堀の役目をしていたんですね。

江戸城岩槻城を中継するための山城として築かれたそうです。

 

www.mi-cha34.com

 

 

 辨天堂

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そしてこちらが、亀ヶ池から出土された弁天像が安置されている、辨天堂です。

亀ヶ池弁財天に祀られた弁天様の元祖ですね。

 

お釈迦様のように戸の隙間から拝見できるかと覗いてみましたが、、、

戸の前に衝立があり弁天様のお姿を見ることができませんでした。

 

 

稲付城跡

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帰りは入った時の門とは別の門から出ました。

 

 

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階段を下りまっすぐ進むと赤羽駅になります、、、が、

下る前に階段の左側へ。

 

 

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稲付城の遺跡があります。

これが何の跡なかは、わかりませんが・・・遺跡だということです。

他にも、調査によって空堀が発掘されているそうです。

 

 

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こちら側の入り口には『稲付城跡』と刻まれた石柱がありました。

 

  

御朱印

静勝寺に御朱印はあるようですが、完全にもらい忘れてしまいました。

「あっ!御朱印!!」と気づいたのは、帰りの電車の中です。

・・・また行けばいいですね。

 

 

 

 

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【自得山 静勝寺・稲付城跡】
所在地:東京都北区赤羽西1-21-17
アクセス:「赤羽駅」より徒歩3分
御朱印:有
駐車場:有
公式サイト:http://joshoji1486.sakura.ne.jp/
(※2020年10月3日付けの情報です。)

大恩寺(東京都北区) ~DEEPな街「赤羽」のDEEPな神仏をめぐる旅 4/7~

大恩寺

山門

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桐ヶ丘中央商店街のちょっと先、大恩寺に来ました。

これまで、

  • 屋上のお稲荷さん
  • 新幹線が通る神社
  • アートな商店街

と、なかなかクセのあるスポットが続きましたが、こちらも負けていません。

なんと『世界初』の観音様がいらっしゃるのです。

赤羽八幡が「新幹線」なら、大恩寺は「自動車」がキーワード。

赤羽は乗り物に関する神仏が多いですね。

 

 

 本堂

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【御本尊】
久遠の本師釈迦牟尼仏(くおんのほんししゃかむにぶつ)

【宗派】
日蓮宗

【御由緒】
大恩寺は、北区景観百選にも選ばれた、赤羽西に位置する日蓮宗の寺院です。
寺号は威徳山大恩寺で、自然石で作られた三十三観音、木彫水子観音や山門の仁王像など多くの仏像があることでも有名です。
寛永6年(1629年)に現在の文京区向丘に創建、その後関東大震災による被害のため、大正14年(1925年)5月、現在の場所に移りました。
(出典:大恩寺パンフレット)

まずは、御本尊様にご挨拶です。

本堂はこの建物の中にあるそうなのですが、

この日は工事中で直接お参りできないとのことでした。

なので、下から手を合わさせてもらいました。

 

関東大震災を機に北区へ移動されたとのことですが、

この地に移る前は、文京区の根津神社付近にあったのだそうです。

 

www.mi-cha34.com

 

 

大恩寺の仏様たち

入口でお寺の方とお会いし、

「たくさんの仏様がいるんで、ゆっくり見て行ってください。」と、

パンフレットと境内の仏様について解説された冊子をいただきました。

その方のお話によると、大恩寺は仏像が多いことでも有名なのだそうです。

「宣伝もしておきました。笑」なんて、

ちゃっかり墓地の案内のチラシまで入っていたのには、

私も一緒になって笑ってしまいましたね。

 

せっかく案内してくださったので、

『世界初の観音様』の前に、まずは境内の仏様たちをご紹介したいと思います。

 

 

 御本尊

冊子より引用です。

大恩寺の御本尊は、一塔両尊四菩薩という形式になっています。

一塔とは、御題目で、両尊とはお釈迦様と多宝如来を言います。

また、四菩薩は、無辺行、上行、浄行、安立行の菩薩様です。

また、本堂の四隅を、持国天毘沙門天広目天王、増長天王がお守りしています。

 

 

 仁王像

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大恩寺の門番、仁王像。

金剛力士とも呼びます。

 

冊子を読んで「金剛=ダイヤモンド」ということを初めて知りました!!!

『最も硬く優れ、壊れない。』

仁王様の力強さをダイヤモンドの強度で表現していたとは、、おもしろいです。

 

 

 三十三観音

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墓地に続く道には、三十三観音が並びます。

冊子によると、

法華経普門品に説かれる観音の三十三応現を集めたもの」

と書かれていました。

 観音様は場合に応じて、33の姿に変化しお救いくださるそうです。

 

 

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この観音様には、それぞれのお名前と得意分野があり、

病気平癒・厄除け・安産・煩悩祓い・・・

自分の望みに合った観音様にお願いごとをするといいそうです。

 

人を救う以外にも、仏法を守護する観音様(龍頭観音)や、

お釈迦様に悟りの内容を布教するよう命ぜられた観音様(徳王観音)も。

 

人を救ったり、仏教を守護したり、布教活動したり、、、

観音様は、何かとお忙しそうです。

 

 

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岩をくり抜いたように彫られた三十三観音は、自然石で造られています

 

 弁財天

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「下をくぐると弁天様がいますよ。」

お寺の方に案内され、天弁様をお参りに行きました。

 

 

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トンネルの先には、池の上に立つ弁天様のお姿が。

背後の金色で書かれた経典にとてもマッチしていて、神々しい雰囲気です。

大恩寺の守護神なのだそうです。

 

 

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弁天様の前には、十五童子が並びます。

十五童子は、弁天様の家来で、天部の脇侍の役目をするそうです。

 

表情がとても豊かですね。

「あっかんべ」をしている童子の姿も!!

 

 

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池には鯉が泳いでいました。

黄金の鯉を発見!

 

 

 聖観音

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この観音様も自然石でしょうか???

三十三観音の倍の高さがありました。

 

 

 水子観音

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栄久殿。

水子堂です。

このお堂の中には、水子観音が安置されています。

日本最大の木彫水子観音と言われているそうです。

 

 

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水子堂の前には、子を抱くお地蔵様。

お地蔵様の足にしがみ付いている子も。

 

 

 その他

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弁天様へ続くトンネル内には、仏様のお姿が刻まれたパネルが掛けられていました。

どのような仏様か解説が書かれたパネルもあります。

とにかく数があるので、それを見ているとなかなかトンネルを進めません。。

 

 

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中でも私のお気に入りは『見返り阿弥陀如来

誰かに呼ばれたのでしょうか???

思わず吹き出しをつけてセリフを入れたくなってしまいました。

(大変失礼ですが、大喜利に向いている絵だと思い・・・。)

 

私は初めて見たのですが、調べてみると普通にあるものなんですね。

 

* * *

 

墓地の中にも仏像があったのですが、お墓参りの方が大勢いらっしゃったので、

遠慮することにしました。

大恩寺墓所全体をお守りくださる『久遠の本師釈迦牟尼仏』の立像とのことです。

 

冊子の解説を読みながらひとつひとつ見仏したいところでしたが、、

それには半日は時間の余裕がほしいかもです。。。


 

世界初!人動車観音

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いよいよ、世界初の観音様のご紹介です。

『人動車観音』

自動車に関係する観音様です。

 

 

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観音様がお座りになられているのは、なんとタイヤ!

となると、後光はハンドルになるのでしょうか???

 

 

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台座の下には、キーのシルエットが彫られていました。

 

『人動車観音』というお名前には、

「車は人間が操作している」という意味合いがあるそうです。

車の安全祈願はもちろんですが、

「車を機械として見るのではなく、人間の命と体の一部として認識しなさいよ!」

という事を教え悟してくださっているのだそうです。

・・・そうですね。

私も通勤で毎日車に乗るので、ここで今一度気を引き締めたいと思いました。

 

『世界初の観音様』とは、

大恩寺創造の『大恩寺オリジナル観音像』でした。

とてもユニークな観音様でしたね。

 

 

 

 

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【威徳山 大恩寺】
所在地:東京都北区赤羽西6-15-19
アクセス:「赤羽駅」よりバス「赤羽郷」下車徒歩1分、「本蓮沼駅」より徒歩8分
御朱印:御首題があるかも???
駐車場:有
(※2020年10月3日付けの情報です。)

篠津の笠地蔵/篠津観音堂(埼玉県白岡市) ~ラーメンと笠地蔵 2/2~

【2020/08/16 ぶら旅コース】
和楽津観音

食後の散歩

ラーメンをすすりながら、

「確かこの近くに珍しいお地蔵様がいたな・・・」

なんてことを思い出し、食後の散歩がてら見に行くことにしました。

 

そのお地蔵様は、笠をかぶった笠地蔵なのですが、、、

道端や昔話でよく見る笠地蔵とは、ちょっと様子が違います。

 

 

津観音

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和楽から車で2分、歩いても6分程度の距離にある、篠津観音堂へ。

同じ町内にある青雲寺が管理する墓地のようです。

 

 

 境内のお地蔵様たち

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お堂の周りには、たくさんの石仏やお地蔵様がいらっしゃいました。

 

 

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小さなお堂の中にも、お地蔵様。

 

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六地蔵は手ぬぐいをかぶっています。

 

 

篠津の笠地蔵

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今回のメインである『篠津の笠地蔵』がこちらになります。

普段イメージするお姿と比べると、少し違和感がありませんか?

 

 

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なんと、笠が石でできているんです。

石でできているというか、、、本体と一緒に掘り出されているんですね。

笠やニット帽をかぶせられたお地蔵様はよく見かけますが、

逆に脱げないタイプはなかなか珍しいそうで、市の文化財に指定されています。

市内で目にできるのはここだけとのこと。

 

「市内ではここだけ」という説明なので、

他の市や県でも見かけることがあるのかもしれませんが、私は今回初めて見ました。

ちょっと重そうに見えるのは私だけでしょうか???

おもしろいお地蔵様ですね。

 

この2体は、観音堂の入口を挟むように向かい合って立っています。

写真右のお地蔵様は享保13年(1728年)、左のお地蔵様は明和3年(1766年)と

銘打たれているそうです。

 

 

 

 

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【篠津観音堂】
所在地:埼玉県白岡市篠津2075
アクセス:JR「白岡駅」より徒歩21分、バス「学校入口」下車徒歩1分
御朱印:無
駐車場:有
(※2020年8月16日付けの情報です。)

 

喜多院(埼玉県川越市) ~小江戸川越をめぐる旅 4/12~

喜多院

 門

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川越観光の定番スポット、喜多院

別名「川越大師」とも呼ばれています。

初詣には40万人以上が訪れ、埼玉県トップの参拝者数を誇ります。

 

 

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かなりの広さがある境内。

門の写真から始めましたが、実際はどこから入ったのか・・・。

仙波東照宮と隣接しているため、東照宮から喜多院の流れだと、

歩いているうちにいつの間にか喜多院ゾーンに入り込んでいます。

案内図を見た感じ、慈眼堂の辺りから入ったようですね。

 

 

www.mi-cha34.com

川越めぐりの記事を書くきっかけとなった、蓮田市慶福寺の将軍桜。

慶福寺によると、その親木が喜多院にあるとのことでした。

偶然にでも写真に納まっていれば・・・と期待しましたが見つからず。

案内図にある『三代将軍お手植桜』がそれなのでしょうか???

喜多院には名桜と言われる枝垂桜が2本あるそうなので、

真相は謎のままです・・・。

 

 

 本堂

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【宗派】
天台宗

【御本尊】
阿弥陀如来(あみだにょらい)

【御由緒】
 喜多院は仙芳仙人の故事によると奈良時代にまでさかのぼるかも知れない。
伝えによると仙波辺の漫々たる海水を仙人の法力により除き、そこに尊像を安置したというが、平安時代淳和天皇の勅により天長7年(830年)慈覚大師円仁により創建された勅願所であって、本尊阿弥陀如来をはじめ不動明王毘沙門天等を祀り無量寿寺と名づけた。
 その後元久2年(1205年)兵火で炎上の後、永仁4年(1296年)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(元三大師)をお祀りし官田五十石を寄せられ関東天台の中心となった。
 正安3年(1301年)後伏見天皇が東国580ヶ寺の本山たる勅書を下し、後奈良天皇は「星野山ー現在の山号」の勅額を下した。更に天文6年(1537年)北條氏綱、上杉朝定の兵火で炎上した。慶長16年(1611年)11月家康公が川越を訪れたとき親しく接見している。そして天海の意見により寺領4万8千坪及び500石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、又4代将軍家綱のとき東照宮に200石を下すなど寺勢をふるった。
寛永15年(1638年)1月の川越大火で現存の山門(寛永9年建立)を除き堂宇はすべて焼失した。そこで3代将軍家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して、客殿、書院等に当てた。家光誕生の間、春日局間があるのはそのためである。その他慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮日枝神社などの現存の建物を数年の間に相次いで再建し、それが今日文化財として大切に保存されているのである。
 尚、明治維新神仏分離令からは東照宮日枝神社は別管理となっている。
(出典:喜多院パンフレット)

 

 

 大黒天

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本堂の並びには、川越七福神のひとつ、大黒天様が祀られています。

 

 

 慈眼堂

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慈眼大師天海を祀る、慈眼堂。

このお堂は少し小高い古墳の上に建っています。

 

 

 鐘楼門

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慈眼堂の向かいにある、鐘楼門。

もともと慈眼堂の場所には仙波東照宮があり、

東照宮の門として建立されたそうです。

 

川越大火で寺の殆どが焼失してしまいましたが、

鐘楼門の再建の記録がないことから、

焼失をまぬがれたのではないかとの見解もあるそうです。

 

 

 多宝塔

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美しい朱色の多宝塔。

もとは白山神社日枝神社の間にあった古墳の上に建っていたそうです。

案内図で見ると、現在は道路になっています。

その道路を作るため、明治時代に慈眼堂の脇に移築されたのですが、

その際に大幅に改造されてしまったのだとか・・・。

それから約60年後。

多宝塔を解体し、現在の位置に復元したのだそうです。

 

 

 白山神社

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多宝塔を挟んでいたのが、こちらの白山神社

日枝神社喜多院の管理下から外れています(のち程UP)。

 

 

 家光誕生の間・春日局化粧の間

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境内へは無料で入ることができますが、1部の見学は拝観券が必要になります。

客殿・書院・庫裡・慈恵堂(本堂)・五百羅漢のコースで、

大人400円、小中学生200円です。

 

 

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こちらでは、江戸城から移築されたという

を見学することができます。

中は撮影禁止なのでお見せできるのは外観のみとなってしまいます。

 

案内図にある「客殿」は、3代将軍家光が生まれた場所という伝えから、

「家光誕生の間」と呼ばれています。

12畳半、17畳半、10畳の部屋が2室ずつあるそうです。

広間には甲冑等が飾られていました。

湯殿(風呂場)や厠(トイレ)も設置されており、

厠を覗いて見ると、、、なんと畳!

簡単な木枠に支えの柵、便器にあたる場所には木の蓋がされていました。

 

畳に穴をあけているのでしょうか???

少し衛生面が気になるつくりでした。。

 

「書院」は「春日局化粧の間」と呼ばれており、

家光の乳母であった春日局が使用していた部屋だと言われています。

8畳、12畳の部屋が2室ずつあるそうです。

 

 

 五百羅漢

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喜多院に来たなら、これを見ずには帰れませんね。

五百羅漢です。

 

 

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入口の奥には538体の羅漢さまが、所狭しと並んでいます。

 

ここでは不思議な伝説があり、

深夜にこっそり羅漢さまの頭を撫でると1体だけ温かいものがあるのだとか・・。

 

 

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このヒソヒソ話をする2体の羅漢像はとても有名です。

 

 

羅漢劇場

www.mi-cha34.com

羅漢と言えば、「羅漢の寺」定福寺を紹介したことがありました。

定福寺の羅漢像はずば抜けたユーモアがありましたが、

喜多院の羅漢像も負けてはいません。

今回もいくつかの写真で羅漢物語を作ってみました。

 

 

 羅漢楽団

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笛。

 

 

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太鼓1。

 

 

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太鼓2。

 

 

 動物と一緒

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ジビエ

 

 

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ドナドナ。

 

 

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「お母さんが飼ってもいいって!」

 

 

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「ごめんよ・・うちは賃貸だから飼うことができないんだ・・・。」
 

 

 成長

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子どもが生まれました。

 

 

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歩けるようになりました。

 

 

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ケンカする友達もできて、

 

 

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勉強の成績も学年トップです。

 

 

 

 寄席

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「隣の家に囲いができたってねぇ。」

「へぇ~。」

 

 

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「わはは!」

 

 

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「今のオチ何?」

 

 

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「ZZZ…」

 

 

 お前のモノは俺のモノ

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「おい、の○太!いい石仏持ってるな!ちょっと見せてみろよ!!」

 

 

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「お前のモノは俺のモノ!俺のモノは俺のモノだ!!」

 

 

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「助けて~!ドラ○も~ん!!」

 

 

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「やれやれ、これだからの○太くんは・・・。」

(※この写真は定福寺の羅漢像です。)



* * *

 

写真が少なく材料不足なところもありましたが・・・いかがだったでしょうか?

喜多院の羅漢様も人情味あふれ、見ているだけで心がほっこりしました。

 

 

御朱印

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最後に御朱印をいただきました。

 

 

 

 

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【星野山 無量寺 喜多院
所在地:埼玉県川越市小仙波1-20-1
アクセス:JR「川越駅」より徒歩30分、西武新宿線本川越駅」より徒歩15分
開門時間:8:50~16:50(曜日・季節による)
定休日:12/25~1/8、2/2・3、4/2~5(拝観)
御朱印:有
駐車場:有(有料)
公式サイト:https://www.kawagoe.com/kitain/
(※囲み内は2020年4月付けの情報です。)

中院・南院遺跡(埼玉県川越市) ~小江戸川越をめぐる旅 2/12~

中院

 門

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川越八幡宮で次に仙波東照宮に行くことを伝えると、

御朱印を書いてくださった宮司さんが、

「途中にきれいなお寺があるから寄って行きなさい。」

と道を教えてくださいました。

 

そのお寺が、こちらの中院です。

川越八幡宮から仙波東照宮方面へ5分ほど歩いた場所にありました。

 

 

 本堂

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【宗派】
天台宗

【御本尊】
阿弥陀如来(あみだにょらい)

【御由緒】
 天長7年(830年)伝教大師最澄の弟子、慈覚大師円仁が、芳道仙人の古跡であった仙波の霊場天皇に奏上。あらためて一寺を建立し、星野山無量寿寺仏地院の勅号を賜りました。この星野山無量寿寺仏地院が中院です。
 永仁4年(1296年)中興祖師尊海は天台の顕教法華経)、密教真言秘密)の教えを広め、関東天台の教寺580余ヶ寺すべて仙波の仏地院に付属し、関東天台の本山の勅許を得ました。後に、尊海和尚は仏蔵院(北院=現喜多院)、多聞院(南院)も建立します。そして、当山は天台宗関東八箇檀林(今で言う大学院)の筆頭として興隆。日蓮上人に恵心流伝法灌頂を授けたのも当山です。
 人皇106代後奈良院の時、天文6年(1537年)北条氏綱河越城を攻めた際、兵火にかかり当山は灰燼と帰しました。寛永9年(1632年)当山28世尊能が中興しましたが、寛永15年(1638年)の川越大火により焼失。翌年の寛永16年(1639年)現在地(境内地内)に移動。享保18年(1733年)に本堂を再建しました。
 度重なる災厄にも耐え、昭和51年(1976年)宗祖伝教大師ご出家得度1200年慶讃大法会にあたり、当山の歴史と寺域の整備が評価され、天台宗務庁より「天台宗別格本山特別寺」の称号を再び下附されました。
 昭和61年(1986年)「昭和の文化財釈迦堂」が古い天台様式(比叡山延暦寺西塔の釈迦堂を模す)により建立されました。平成24年(2012年)には、長年懸案だった薬師堂を復興。堂内に十三仏を祀る永代供養墓(位牌・納骨堂)として建立し、みなさまが当山と新しいご縁で結ばれることを願って、『遊行の会』を発足いたしました。中院本来の姿である、本堂・釈迦堂・薬師堂の三堂が揃いました。
 約1200年前、伝教大師最澄の教えを受けた慈覚大師円仁がもたらした法灯は、今もなお68代続く現住職に引き継がれています。
(出典:公式サイト

川越八幡宮宮司さんのお話によると、

中院はかつて現在の仙波東照宮がある地に建てられており、

東照宮建立を機にこの地に移築されたとのことです。

 

 

 庭園

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境内は美しい庭園になっていました。

春はこの庭を覆うように、桜が花を咲かせるそうです。

中でも枝垂桜は特に見事なのだとか。

 

桜の時期限定で『さくらカフェ』もオープン。

島崎藤村所縁の茶室「不染亭」で、

お抹茶や和菓子をいただきながら桜を眺めることができるそうです。

これは、行ってみたいですね。

 

 

 島崎藤村所縁の地

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春はさくらカフェとして開放(普段は非公開)される茶室「不染亭」は、

小説家 島崎藤村と深く係わりのある場所です。

藤村が妻・静子(川越出身)の母、加藤みきに贈ったもので、

みきは藤村にとって義母であり茶道の師匠でもあったそうです。

 

 

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境内にはみきのお墓もありました。

 

 

 狭山茶発祥の地

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お茶つながりで、狭山茶発祥之地と書かれた石碑もありました。

狭山茶は埼玉県入間市で多く生産されているお茶で、

日本三大茶のひとつにも数えられています。

 

狭山茶なのに川越が発祥!?」

江戸時代、入間市などお茶の生産地が川越藩領下にあったため、

その地域で生産されたお茶は「河越茶」と呼ばれていたそうです。

 

 

 鐘楼門

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境内をくるっと散策し、正面とは別の門から出ました。

そこは鐘楼門になっていました。

 

 

南院遺跡

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中院を出て仙波東照宮を目指し歩いている途中、

『南院遺跡』という場所を見つけました。

 

 

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さほど広くないその土地には、いくつかの石碑や仏像が並んでいました。

回りを有刺鉄線で囲んでおり、ちょっと不気味な雰囲気です・・・。

 

この時はここが何なのかわからなかったのですが、

後ほど調べてみると星野山無量寿寺のひとつであったことを知りました。

星野山無量寿寺は、中院・北院・南院の3院からなり、

そのうち南院は明治時代の廃仏毀釈により廃寺となってしまったそうです。

現在は住宅地となってしまい、残っているのはほんの一角。

当時南院に安置されていた石仏を集め、南院遺跡として残しているとのことでした。

 

ちなみに、北院とは現在の喜多院のこと。

喜多院も今回のぶら旅コースに入っていたので、

川越八幡宮宮司さんに中院を教えてもらい、

偶然にも南院の名残も見ることができてよかったです。

 

 

 

 

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【星野山 無量寿寺 中院】
所在地:埼玉県川越市小仙波町5-15-1
アクセス:JR「川越駅」より徒歩20分、小江戸巡回バス「中院」下車
御朱印:不明
駐車場:有
公式サイト:https://www.nakain.com/
(※2014年12月6日付けの情報です。)

将軍桜/慶福寺(埼玉県蓮田市)

ぶら旅自粛中

新型コロナウイルスの件で、ただ今ぶら旅を自粛中です。

「公園なら大丈夫」と言われていた時期もありましたが、

いやいや、、、近所の公園は鮨詰め状態でしたよ・・・。

逆に観光地の方が安全なのではないかと思うくらいの人混みでした。

 

行楽の季節。

家に引きこもるのはなかなかのストレスですが、

この騒動が治まるのを今はじっと待ちたいと思います。

一刻も早く平穏な日々が戻ってくることを祈ります。

 

とか言いつつ。

春分の日、買出しついでに、近くのお寺に寄りました。

以前、『寅子伝説をめぐる旅』で訪れた慶福寺です。

このお寺の名物、将軍桜を見てきました。

 

慶福寺については、過去の記事をご覧ください↓↓↓

www.mi-cha34.com

 

 

将軍桜

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【将軍桜】
 徳川家3代将軍家光公は徳川家3世に亘る知恵袋であり、川越・喜多院天台宗)の貫主であった天海大僧正に深く帰依していたので川越・寛永の大火の後に将軍ご自身の誕生の間を「紅葉山御殿」(今の皇居)から喜多院に移築された。その折に、同時に移植された「江戸彼岸桜」とよばれる枝垂桜は当時の桜の親木に当たるもので未だ肌寒い春の彼岸の頃、優美な花姿を見せてくれる。徳川家ゆかりのこの将軍桜は当時の第16世亮謙師が加行遂業の記念に古谷村・灌頂院櫛笥徳師を通して頂戴した。大正14年秋植樹。
(出典:境内案内板)
こちらが慶福寺の将軍桜です。
満開です。
 
毎年多くの花見客が訪れるとのことでしたが、

この日はお墓参りの方が1~2人程度で、ほぼ貸切状態でした。

 

 

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桜越しの本堂。

 

 

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本堂からの桜。

 

 

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見上げると大きな傘を差しているような。

 

 

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灯籠と桜も絵になります。

 

 

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少しの時間でしたが、十分に桜を堪能することができました。

ものすごく、きれいだった!!!

 

 

その他の植物

境内は桜の他にもさまざまな花が植えられ、甘い香りが漂います。

 

 

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小さな滝では苔を栽培。

 

 

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水が落ちる音と苔の鮮やかな緑に、清々しさを感じます。

 

 

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クリスマスローズ

 

 

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ハナニラ

 

 

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アセビ

 

 

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ツバキ。

 

 

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参道では夏に向けて、アジサイが葉を茂らせていました。

アジサイの時期も楽しみですね。


* * *

 

今年はとんでもない事態が発生し、花見どころではありませんでした。

来年は桜の木の下で春を満喫したいものです。

 

 

 

 

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天台宗 中鷹山 蓮台院 慶福寺】
所在地:埼玉県蓮田市蓮田4-104
アクセス:JR「蓮田駅」より徒歩18分
御朱印:無
駐車場:有
公式サイト(まにわ塔納骨堂):https://bridge-sys.jp/keifukuji/
(※2020年3月20日付けの情報です。)