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中院
■ 門
「途中にきれいなお寺があるから寄って行きなさい。」
と道を教えてくださいました。
そのお寺が、こちらの中院です。
川越八幡宮から仙波東照宮方面へ5分ほど歩いた場所にありました。
■ 本堂
天台宗
【御本尊】
阿弥陀如来(あみだにょらい)
【御由緒】
天長7年(830年)伝教大師最澄の弟子、慈覚大師円仁が、芳道仙人の古跡であった仙波の霊場を天皇に奏上。あらためて一寺を建立し、星野山無量寿寺仏地院の勅号を賜りました。この星野山無量寿寺仏地院が中院です。
永仁4年(1296年)中興祖師尊海は天台の顕教(法華経)、密教(真言秘密)の教えを広め、関東天台の教寺580余ヶ寺すべて仙波の仏地院に付属し、関東天台の本山の勅許を得ました。後に、尊海和尚は仏蔵院(北院=現喜多院)、多聞院(南院)も建立します。そして、当山は天台宗関東八箇檀林(今で言う大学院)の筆頭として興隆。日蓮上人に恵心流伝法灌頂を授けたのも当山です。
人皇106代後奈良院の時、天文6年(1537年)北条氏綱が河越城を攻めた際、兵火にかかり当山は灰燼と帰しました。寛永9年(1632年)当山28世尊能が中興しましたが、寛永15年(1638年)の川越大火により焼失。翌年の寛永16年(1639年)現在地(境内地内)に移動。享保18年(1733年)に本堂を再建しました。
度重なる災厄にも耐え、昭和51年(1976年)宗祖伝教大師ご出家得度1200年慶讃大法会にあたり、当山の歴史と寺域の整備が評価され、天台宗務庁より「天台宗別格本山特別寺」の称号を再び下附されました。
昭和61年(1986年)「昭和の文化財釈迦堂」が古い天台様式(比叡山延暦寺西塔の釈迦堂を模す)により建立されました。平成24年(2012年)には、長年懸案だった薬師堂を復興。堂内に十三仏を祀る永代供養墓(位牌・納骨堂)として建立し、みなさまが当山と新しいご縁で結ばれることを願って、『遊行の会』を発足いたしました。中院本来の姿である、本堂・釈迦堂・薬師堂の三堂が揃いました。
約1200年前、伝教大師最澄の教えを受けた慈覚大師円仁がもたらした法灯は、今もなお68代続く現住職に引き継がれています。
(出典:公式サイト)
中院はかつて現在の仙波東照宮がある地に建てられており、
東照宮建立を機にこの地に移築されたとのことです。
■ 庭園
境内は美しい庭園になっていました。
春はこの庭を覆うように、桜が花を咲かせるそうです。
中でも枝垂桜は特に見事なのだとか。
桜の時期限定で『さくらカフェ』もオープン。
島崎藤村所縁の茶室「不染亭」で、
お抹茶や和菓子をいただきながら桜を眺めることができるそうです。
これは、行ってみたいですね。
■ 島崎藤村所縁の地
春はさくらカフェとして開放(普段は非公開)される茶室「不染亭」は、
小説家 島崎藤村と深く係わりのある場所です。
藤村が妻・静子(川越出身)の母、加藤みきに贈ったもので、
みきは藤村にとって義母であり茶道の師匠でもあったそうです。
境内にはみきのお墓もありました。
■ 狭山茶発祥の地
お茶つながりで、狭山茶発祥之地と書かれた石碑もありました。
日本三大茶のひとつにも数えられています。
「狭山茶なのに川越が発祥!?」
その地域で生産されたお茶は「河越茶」と呼ばれていたそうです。
■ 鐘楼門
境内をくるっと散策し、正面とは別の門から出ました。
そこは鐘楼門になっていました。
南院遺跡
中院を出て仙波東照宮を目指し歩いている途中、
『南院遺跡』という場所を見つけました。
さほど広くないその土地には、いくつかの石碑や仏像が並んでいました。
回りを有刺鉄線で囲んでおり、ちょっと不気味な雰囲気です・・・。
この時はここが何なのかわからなかったのですが、
後ほど調べてみると星野山無量寿寺のひとつであったことを知りました。
星野山無量寿寺は、中院・北院・南院の3院からなり、
そのうち南院は明治時代の廃仏毀釈により廃寺となってしまったそうです。
現在は住宅地となってしまい、残っているのはほんの一角。
当時南院に安置されていた石仏を集め、南院遺跡として残しているとのことでした。
ちなみに、北院とは現在の喜多院のこと。
喜多院も今回のぶら旅コースに入っていたので、
偶然にも南院の名残も見ることができてよかったです。
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