寛永寺 → 開山堂(両大師)/輪王寺 → 上野東照宮 → 東照宮第一売店 → 上野大仏 → 花園稲荷神社 → 五條天神社 → 不忍池辯天堂 → 清水観音堂
【コースMAP:鶯谷駅~上野駅(※実際の徒歩ルートと異なることがあります)】
上野恩賜公園
上野公園に行ってきました。
上野公園というと、動物園をはじめ美術館・博物館が多く点在し、
春は桜の名所としても有名です。
そんな上野公園ですが、実は神社仏閣が集まる場所でもあり、
園内だけで10枚以上の御朱印を入手することができるという、
御朱印コレクターにとっても嬉しいスポットなんですね。
しかし、公園内といってもかなりの広さです。
私は4~5年前にも巡拝しているのですが、当時は下調べせず行ってしまったので、
ムダに行ったり来たり・・・。
なので今回は、スムーズに参拝できるコースを作り再訪問してみました。
寛永寺
上野公園の最寄り駅は上野ですが、お隣の鶯谷からスタートします。
■ 山門
上野公園からすぐの場所なのですが、上野恩賜公園公式MAPから外れているので、
厳密に言うと園内ではない・・・のかもしれません。
しかし、上野公園内の寺社を巡るには欠かせないお寺なので、お参り必須です。
というのも、現在上野公園となっている敷地は、もともと寛永寺の境内。
今回のぶら旅コースで訪れた寺院は、すべて寛永寺のお堂なのです。
■ 根本中堂(本堂)
薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)
【宗派】
天台宗
【御由緒】
東叡山寛永寺は、寛永2年(1625年)に、幕府と万民の平安・安泰を祈る祈願寺として、慈眼大師天海大僧正によって創建されました。山号は「東の比叡山」の意、寺号は寛永年間に創建されたことによります。
後には、第四代将軍・徳川家綱公の霊廟が造営され、将軍家の菩提寺も兼ねることとなりました。また東叡山主に皇族(輪王寺宮)を迎え入れたことにより、江戸時代の寛永寺は格式と規模において我が国屈指の大寺院となりました。
しかし幕末の上野戦争で被災し、敷地の大部分は明治初期に上野公園となりました。太平洋戦争後は新たに霊園を造営し広くお檀家を受け入れるなど、伝統を守りながらも多くの人々に親しまれ今日に至っています。
(出典:寛永寺パンフレット)
『東叡山』という山号を持ち、それには「東の比叡山」という意味があります。
これは京都御所の鬼門に位置し、朝廷の安穏を祈る鎮護国家の道場であった、
この後訪れるお堂にも、京都の寺院を模したものがあります。
創建時の本堂は、上野公園の大噴水のあたりにあったといいます。
寛永寺の本堂として再建されたそうです。
この本堂が、喜多院のお堂だったとは!!
喜多院には、本地堂跡を記す碑があるそうなのですが、、、
以前参拝に訪れた時はまったく気づきませんでした。
■ 勅額
本堂に掲げられた勅額は、第113代天皇の東山天皇による宸筆のもの。
お寺の方がこの額にちなんだお話をしてくださいました。
上野戦争で本堂を焼失しているにも拘らず、焼け跡ひとつないこの勅額。
なぜ、このような綺麗な状態で残ったのでしょうか・・・?
なんと、本堂焼失以前は、レプリカを掲げていたのだそうです。
それではなぜ、レプリカを???
この勅額が京都から寛永寺に届いた日、江戸で火事が起こりました。
火の手は新橋から上野方面まで広がり、寛永寺も被災。
根本中堂は辛うじて免れることができたそうです。
(その火事は「勅額火事」「中堂火事」と呼ばれています。)
当時、江戸では火事が多発したことから勅額の焼失を恐れ、倉で保管することに。
その代わりにレプリカが造られ、掲げられていたそうです。
私:火事がなければ戦争で焼けていたかもしれないんですね。
寺:そうよね!とにかく、焼けたのは偽物!今あるのが本物!よく見て行ってね!
■ 銅鐘
厳有院殿(4代将軍家綱)の一周忌に、厳有院殿廟前の鐘楼に奉献されたもの。
明治維新後、この地に移築。
■ 鬼瓦
旧本坊表門・根本中堂の鬼瓦。
旧本坊表門の鬼瓦。
高さ113㎝。
旧本坊は、現在の東京国立博物館の地に建てられていましたが、
上野戦争で焼失しています。
表門のみ現存しており、輪王殿で見ることができます(後ほど紹介)。
お隣に並ぶのは、根本中堂の鬼瓦。
高さが旧本坊の鬼瓦の倍以上、248㎝もあります。
屋根の上でも存在感がありますね。
鬼瓦を見ようと屋根を見上げたら、屋根の上で跳ねる獅子の姿を発見しました。
そして、写真を見て気づいたのですが、瓦に『寛永寺』って書いてある???
(写りが悪くてわからない・・・)
■ 慈海僧正墓
東叡山凌雲院の住職の墓。
凌雲院に東京文化会館が建設されることとなり、根本中堂に移動。
■ 了翁禅師塔碑
江戸時代前期の黄檗宗の僧、了翁禅師の座像。
薬屋を営み、その利益で難民救済や寛永寺に図書館の設置などを行うなど、
その業績を称え造られた顕彰碑。
ご本人の生前に造られたものとのことですが、、、
この塔も別の場所から移築されており、元の場所や移築時期は不明だそうです。
■ 虫塚碑
伊勢長嶋藩主増山雪斎が、
写生図譜『虫豸帖(ちゅうちじょう)』の作画に使った虫類の霊を慰めるため、
雪斎の遺志により建てられた塚。
■ 尾形乾山墓碑・乾山深省蹟
画家 尾形乾山の顕彰碑。
■ 上野戦争碑記
石板にびっしりと刻み込まれた文字はすべて漢字で解読不能でした。。
■ 地蔵郡
水子地蔵でしょうか???
誰が置いたのか、お地蔵様は皆、どんぐりを持っていました。
歴代将軍御霊廟
根本中堂を出て、寛永寺の霊園の方へ。
徳川家歴代将軍御霊廟を見に行きました。
歴代将軍15名の内、6名がここに眠ります。
- 4代 家綱(法名:厳有院)
- 5代 綱吉(常憲院)
- 8代 吉宗(有徳院)
- 10代 家治(淩明院)
- 11代 家斉(文恭院)
- 13代 家定(温恭院)
『御霊廟』とは、、、
御本尊・位牌・木像を安置する本殿と拝殿を相の間でつなぐ「相の間造り」という
霊廟建築と、将軍が埋葬されている宝塔(墓所)や水盤舎などの総称です。
しかし、現存するのは、勅額門と水盤舎・宝塔のみ。
第二次世界大戦の空襲で大部分の建造物が焼失してしまったそうです。
■ 常憲院御霊廟勅額門
5代綱吉の霊廟勅額門。
その先に水盤舎があるとのことですが、非公開の為これ以上覗くことはできません。
綱吉の御霊廟には、8代吉宗・13代家定が合祀されています。
■ 厳有院御霊廟勅額門
常憲院御霊廟勅額門から少し歩いた場所には、厳有院御霊廟勅額門。
4代家綱の御霊廟です。
こちらも水盤舎が残っているとのことですが、非公開となっています。
こちらには、10代家治・11代家斉が合祀されています。
* * *
1~7代将軍は、埋葬されたお寺に霊廟があるのですが、
8代吉宗が『御霊屋建立禁止令』を出したため、
以降、寛永寺か増上寺のいずれかの霊廟に合祀し、宝塔のみ建立されたそうです。
御朱印
御朱印は根本中堂内でいただけます。
* * *
寛永寺・・・。
火事、戦争、焼失・・・と、悲惨な言葉が連呼されたお寺でしたね。
境内の石碑やお堂を見ても、
行き場を失った者たちが身を寄せ合っているといった印象を受けました。
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