寛永寺 → 開山堂(両大師)/輪王寺 → 上野東照宮 → 東照宮第一売店 → 上野大仏 → 花園稲荷神社 → 五條天神社 → 不忍池辯天堂 → 清水観音堂
【コースMAP:鶯谷駅~上野駅(※実際の徒歩ルートと異なることがあります)】
上野大仏
もんじゃまんでエネルギーをチャージして巡礼再開。
後半戦は、上野大仏からスタートです。
ところで、上野に大仏様がいらっしゃったことをご存じでしょうか?
私は幼い頃から何度も上野公園を訪れたことがあるにも拘らず、
寺社めぐりを始めるまでその存在を知りませんでした。
園内でも人通りの多い道沿いに鎮座しているのですが、
大仏山という小高い丘の上に鎮座していることや、
大道芸などで通りが賑わっていることもあってか、
なかなか気付き難い場所だったりするのかもしれません。
しかし、上野公園に来たのなら、ここは是非見ていただきたいスポットです。
なぜなら、上野の大仏様はとても変わったお姿をしているからです。
■ 門
階段を上り、大仏山の山頂へ。
■ 上野大仏
門を入るとすぐ、大仏様は姿を現します。
釈迦如来(しゃかにょらい)
【御由緒】
この大仏は寛永8年(1631年)、越後国村上城主であった堀丹後守直寄公がこちらの高台に、戦乱に倒れた敵味方の冥福を祈るために建立した「釈迦如来」です。京都・方広寺の大仏に見立てられ、当初は漆喰で作られましたが、明暦・万治の頃(1655~1660年)木食浄雲(もくじきじょううん)という僧侶により高さ6メートルの銅仏に改められました。
また元禄11年(1698年)には輪王寺宮公弁法親王により大仏殿が建立され、伽藍が整いました。しかし大仏は江戸時代以来、地震や火災といった災難に何度も見舞われました。幕末の上野戦争では辛くも被害を免れましたが、明治6年に大仏殿が解体され、さらに大正12年の関東大震災でついにお顔が落ちてしまったのです。
その後、寛永寺で保管された大仏は再建される計画もありましたが、残念ながら復元されることなく、お体は第二次世界大戦時に供出されてしまいました。昭和47年春、再び旧地に迎えられた大仏は、建立当時より大きくお姿を変えましたが「これ以上落ちない合格大仏」として広く信仰を集めています。
(出典:境内案内板)
なんと!
上野の大仏様は、お顔のみのお姿をしているのです!!
なぜ、このようなお姿になってしまったのか?
別の案内板にその詳細が書かれていたので、簡単にまとめてみました。
正保4年:地震により倒壊
明暦~万治年間:木食僧浄雲により釈迦如来坐像を造立
天保12年:火事により大仏・大仏殿ともに損傷
天保14年:堀直寄の子孫 直央が大仏、幕府が仏殿を再建
安政2年:大地震により大仏の頭部が倒壊、間もなく堀家により修復される
明治6年:上野公園開設の際に仏殿取り壊し(同9年、10年という説有り)
第二次世界大戦時:金属類回収令により大仏の胴体と脚部を国へ供出
昭和47年:大仏の面部をレリーフ状に奉安
関東大震災での倒壊後、昭和15年に開催予定だった東京オリンピックに向けて、
再建計画が持ち上がっていたそうです。
ですが、戦争によってどちらも幻となってしまいました。。。
仏様というものは、平和や安全を願って建立されることが多いと思いますが、
まさか、仏様自身が戦争に利用されてしまうとは・・・何とも悲しいお話です。
現在は、幾度の災難を乗り越えた大仏様の経緯から「これ以上落ちない」と、
「合格大仏」と呼ばれ受験生に人気だそうです。
祭壇には、大仏様の全身の写真がありました。
よく見ると、唇の赤みが少し残っています。
それにしても、螺髪があるかないかでだいぶお顔の印象が変わりますね。
現在の方が、穏やかな表情に見えました。
■ 大仏殿
境内案内板には、大仏殿の写真も掲載されています。
■ パゴダ
大仏殿の跡地には、パゴダ(ミャンマーの仏塔という意味)が建っています。
中には寛永寺と同じ薬師如来、脇侍に日光・月光菩薩が安置されています。
この仏像は、東照宮内にあった薬師堂に安置されていたもの。
仏様は撮影禁止ですが、そのお姿を拝見することは可能です。
御朱印
上野大仏の御朱印。
パゴダの御朱印。
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