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仙波東照宮
■ 門
南院遺跡からすぐ近く、仙波東照宮に来ました。
日本三大東照宮のひとつに数えられています。
(3つ目は他に候補有り)
■ 参道
たまたまか意図的か、参道には葵の紋のように石が埋め込まれていました。
■ 拝殿
鳥居の先にある階段の上に社殿が鎮座しています。
門には徳川家の家紋。
■ 拝殿
徳川家康公(とくがわいえやすこう)
【御由緒】
仙波東照宮は、喜多院第27世住職天海僧正が徳川初代将軍家康公を祀ったものです。
家康公は、元和2年(1616年)4月17日、75歳で薨去されると、いったんは静岡県の久能山に葬られましたが、家康公の遺言に従い、元和3年(1617年)、2代将軍秀忠は亡父家康公の遺骨をあらためて日光に移葬しました。その時、久能山から日光に至る道中、同年3月15日出発して、道中の各宿に泊りつぎ、同23日、仙波喜多院の大堂(薬師堂、のちに東照宮本地堂とも言いました)に到着しました。
このところで天海僧正は親しく導師となって、3月26日まで、実に4日間、衆僧を集めて、丁重な法要を厳修しました。この長い法要を終えて、次宿・行田忍にお送りした後の元和3年(1617年)9月16日、天海僧正は家康公在世の渥恩に感謝の気持ちを伝えるため、また遺柩止留の跡として、家康公の像(高さ八寸八分)を作り、大堂に祀ったのが東照宮の初めです。
天海僧正は、この東照宮を広く多くの方に崇拝してもらうため、現在のこの地に高さ五間(約9m)の丘陵を築きあげて立派な社殿を造り、寛永10年(1633年)11月16日遷祀しました。同年12月24日には、後水天皇が宸翰御神号として「東照大権現」の勅額を下賜されました。
ところが、寛永15年(1638年)1月28日、川越街に大火災が起こり、仙の神社、堂塔、門前屋敷まで延焼してしまいました。これを聞いた3代将軍家光は、直接東照宮再建の計画を立て、同年3月、川越城主堀田加賀守正盛を造営奉行に命じ、天海僧正を導師として、寛永17年(1640年)5月竣工しました。現在の社殿はこのときのものです。
以来、社殿並びに神器等はすべて幕府が運営するものとなりましたが、もともと自祭であり祭資は幕府からいただいておりませんでした。そこで喜多院第29世住職周海僧正(天海の高弟)は祭典の完備を期して、寛文元年(1661年)3月、松平伊豆守信綱(川越城主)を介して、4代将軍徳川家綱にお願いをし、大仙波の地200石を祭地に供せられました。
その後、幕府の手でたびたび修理を加えられ、弘化4年(1847年)にもっとも大きな修理を行いました。明治2年(1869年)、諸領一般上地の令により社領を奉遷し、逓減割となり、同年の神仏分離令により、喜多院の管理を離れました。
(出典:川越八幡宮公式サイト)
日曜・祝日が開門日となっています。
この日は土曜日。
中に入ることができず、門前でお参りさせていただきました。
境内の殆どの建造物が、国指定重要文化財となっています。
入口から社殿の裏まで見所がたくさんあるので、次回は開門日に訪れたいです。
余談ですが、、、
この地は、童謡『あんたがたどこさ』の発祥の地とも言われているそうです。
熊本県の童謡という説が一般的のようですが、
歌詞が関東圏の言葉であること、狸(=家康)が登場することから、
「川越ではないか・・・?」との意見もあるそうです。
歌詞には「せんば」という地名も出てきますね。
・・・しかしですよ。
猟師は、家康公を例える狸を撃って・煮て・食ってしまいますけど・・・。
最後に木の葉でかぶすわけはそこにあるのでしょうか?
開運だんご
社殿への門は閉じていましたが、向かいにある小さな売店は営業していました。
開運だんご。
お醤油のいい香りが漂います。
せっかくなので、おだんごをいただくことにしました。
焼きたてのお団子はおいしい!
(写真を撮る前にひとつ食べちゃってます・・笑)
お店のおばあちゃんがお茶を出してくださり、
おしゃべりしながらおだんごを楽しみました。
あのおばあちゃん、元気にしているかな・・・?
御朱印
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