寛永寺 → 開山堂(両大師)/輪王寺 → 上野東照宮 → 東照宮第一売店 → 上野大仏 → 花園稲荷神社 → 五條天神社 → 不忍池辯天堂 → 清水観音堂
【コースMAP:鶯谷駅~上野駅(※実際の徒歩ルートと異なることがあります)】
清水観音堂
上野公園の寺社をめぐる旅、いよいよ最後のお寺になりました。
ラストを飾るのは、清水観音堂です。
以前も江戸三十三観音で記事を書きましたが、改めてご紹介します。
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■ 外観
こちらもとあるお寺がモデルとなっています。
名前からピンと来る通り、京都の清水寺です。
■ 本堂
千手観世音菩薩(せんじゅかんぜおんぼさつ)
【御由緒】
清水観音堂は、寛永8年(1631年)に天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正(1536~1643年)によって建立されました。
天海大僧正は寛永2年(1625年)に、二代将軍徳川秀忠公から寄進された上野の山に、平安京と比叡山の関係にならって「東叡山寛永寺」を開きました。これは、比叡山が京都御所の鬼門(艮=東北)を守るという思想をそのまま江戸に導入することを意味し、江戸城の鬼門の守りを意図したのです。そして比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と建立しましたが、清水観音堂は京都の清水寺(きよみずでら)を見立てたお堂です。
清水観音堂は、京都の清水寺の義乗院春海上人から、同寺安置の千手観世音菩薩が天海大僧正に奉納されたことにちなみ、清水寺と同じ舞台作りで、初めは上野公園内の「擂鉢(すりばち)山」に建てられました。しかし元禄初期、今の噴水広場の地に、寛永寺総本堂の根本中堂建設が決まると、その工事に伴って元禄7年(1694年)9月に現在地に移築されました。上野の山に現存する、創建年時の明確な最古の建造物です。
平成2年12月から文化財保存修理が行われ、平成8年(1996年)10月に竣工、元禄移築時の面影を再現するに至る、国指定重要文化財です。
(出典:公式サイト)
堂内(撮影禁止)に掛かる上野戦争を描いた絵馬には、
当時使われた砲弾も一緒に見ることができます。
■ 清水の舞台
清水の舞台も設置されています。
京都の清水寺は、中学校の修学旅行で行ったきりですかね・・・
本家に比べると、かなりミニチュアです。
本家は12mの高さがあるそうですが、こちらは手前の石灯籠より低いです。
「清水の舞台から飛び降りる」という言葉がありますが、
東京の舞台ならそこまでの覚悟はいらないかもしれません。。
■ 月の松
舞台からは、クルッと丸まった松の木が鑑賞できます。
外から見た様子。
この松は『月の松』と呼ばれ、
江戸時代の浮世絵師歌川広重の『名所江戸百景』において、
『上野清水堂不忍ノ池』『上野山内月のまつ』として描かれた松を、
平成24年12月に復元したものです。
(上の看板は、『上野清水堂不忍ノ池』)
月の中から、不忍池辯天堂が見えました。
■ 擂鉢山
もともと清水観音堂があったとされる擂鉢山も、上野公園内に残っています。
弥生式土器や埴輪の破片などが出土したことから、
古墳だったのではないかと考えられているそうです。
御朱印
上野公園内の寺社、最後の御朱印です。
上野戦争
■ 彰義隊の墓
生き残った小川ら隊士は、明治7年(1874年)にようやく新政府の許可を得て、激戦地であり隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦死の墓を建立した。なお、遺骨の一部は南千住円通寺内に合葬されている。以後120年余りに渡り、小川一族によって墓所が守られてきた。現在、歴史的記念碑としてその管理は東京都に移されている。
(出典:案内板)
今回のぶら旅の中で、ちょいちょい出てきたワード『上野戦争』
彰義隊ら旧幕府軍と、薩摩藩・長州藩を中心とした新政府軍の戦いです。
西郷像の近くには、彰義隊の墓が建っています。
西郷像がある辺りは、当時、薩摩軍が戦った場所だと何かで聞いたことがあります。
西郷さんにさよならをして、今回のぶら旅はおしまいです。
旅の終わりに・・・
交通費:1300円
参拝費:4650円
飲食代:490円
合計:6440円
歩数:16800歩
上野公園内の寺社を巡りました。
園内のみと言っても、かなりのボリュームだと思います。
御朱印はいただいていないものもあるので、
ここでご紹介した御朱印+2~3枚でコンプリートと言ったところでしょうか。
以前訪れた時は、ほとんどの寺社で直書きしてくださったのですが、
今回はほぼ書置きタイプになっていました。
そして、300円だった初穂料も500円に!!
時間とお財布に余裕がある時におすすめしたいスポットです。
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