寛永寺 → 開山堂(両大師)/輪王寺 → 上野東照宮 → 東照宮第一売店 → 上野大仏 → 花園稲荷神社 → 五條天神社 → 不忍池辯天堂 → 清水観音堂
【コースMAP:鶯谷駅~上野駅(※実際の徒歩ルートと異なることがあります)】
不忍池
不忍池ゾーンに入りました。
見ての通り、蓮の名所として知られる池です。
花の時期はとっくに終わり、池一面はハスの葉に覆われていましたが、
このグリーンもとてもきれいです。
緑の水面にぽっかりと浮かぶお堂は、不忍池辯天堂。
花の時期はリアル曼荼羅を見ているような、幻想的な景色が広がることでしょう。
不忍池辯天堂
■ 参道
辯天堂の参道は、いつも屋台が出ていて賑やか。
やきとりや串焼きなどのいい香りが漂います。
現在は歩いてお堂まで行くことができますが、
大昔は橋が架かっておらず、船に乗って参拝に行っていたそうです。
■ 手水舎
手水鉢には、女性の神様らしくお花が飾られていました。
こちらの手水舎では、天井にも注目です。
龍を描いた水墨画が見ることができます。
■ 本堂
辯才天(べんざいてん)
【御由緒】
寛永2年(1625年)天海僧正は、比叡山延暦寺にならい、上野台地に東叡山寛永寺を創建した。不忍池は、琵琶湖に見立てられ、竹生島に因んで、常陸(現茨城県)下館城主水谷勝隆が池中に中之島(弁天島)を築き、さらに竹生島の宝厳寺の大弁才天を勧請し、弁天堂を建立した。
当初、弁天堂へは小船で渡っていたが、寛文年間(1661~72年)に石橋が架けられて、自由に往来できるようになり、弁天島は弁天堂に参詣する人々や行楽の人々で賑わった。
弁天堂は、昭和20年の空襲で焼失し、昭和33年9月に再建された。弁天堂本尊は、慈覚大師の作と伝えられる八臂の大弁才天、脇侍は毘沙門天、大黒天である。
本堂天井には、児玉希望画伯による「金竜」の図が画かれている。また、本堂前、手水鉢の天井に、天保3年(1832年)と銘のある谷文晁による「水墨の龍」を見ることができる。
大祭は、9月の巳の日で、巳成金(みなるがね)という。
(出典:境内案内板)
提灯の門をくぐると拝所になります。
この不忍池は琵琶湖を模しているということです。
辯天堂がある島が竹生島ということでしょうか???
日本三弁財天に数えられています。
弁才天は芸能の神と言われるだけあり、提灯には著名人の名前もちらほら・・。
本堂の前には、宇賀神様もいらっしゃいます。
優しい笑顔。
お堂の裏手に回ると、辯天堂は本堂と拝所に分かれていることがわかります。
辯天様が安置されている本堂は、八角形の形をしていました。
これは「不忍池のどこからでもお参りができるように」という意味があるそうです。
ちなみに、安置されている辯天様は八臂タイプ。
よく目にするような琵琶を弾くお姿とは違い、
体から出た数本の手に様々な宝や道具を持っています。
大黒天堂
このお堂は、豊臣秀吉が大切に護持したと伝わる大黒天が祀られる、東叡山寛永寺(天台宗)の伽藍の一つです。
大黒天はもともとインド古来の「マハーカーラ」という戦争の神、時間を支配する恐ろしい神と考えられてきました。やがて日本に仏教が伝わり、民間信仰の対象となってからは、日本古来の福神の大国主命と同体である(大黒と大国は同音であるため)という考えが生まれて武神から福神へと変化し、広く親しまれるようになりました。打ち出の小槌や米俵に乗って福袋を担ぐお姿で知られる大黒天の御利益は、開運招福や家門繁栄、富貴をもたらすなどであり、また寺院の食料の守護神として祀られるようになりました。この大黒天堂は太平洋戦争で焼失しましたが、ご本尊の大黒天は安泰で、昭和43年に旧位置に再建されました。
【大黒様の縁日「甲子(きのえね)」】
大黒天の縁日である「甲子の日」は、毎日に干支を当てはめると最初に当たる日です。そのため物事をはじめるのに縁起を担ぐ習慣が昔からあり、大切にされてきました。
また大黒天が食料の守護神とされたことから、鎌倉時代にはその使いが鼠(ねずみ)と考えられるようになりました。子(ね)を鼠と結びつかせ、鼠を大黒天の使者とみなして甲子の日に大黒天祭(甲子祭)が行われ、甲子侍(かっしまち)と言って子の刻(23時頃)過ぎまで起きて大豆、黒豆、二股大根などをお供えし、大黒天を祀るという習慣に通じました。
【辯天さまと大黒さま】
辯才天を祀る辯天堂の境内になぜ大黒天が祀られているのでしょうか。これは、大黒天と毘沙門天と辯才天が合体した「三面大黒」にその淵源を探ることが出来ます。
大黒天は「食料や富を授ける」、毘沙門天は「武力や勇気を授ける」、辯才天は「美や才能を授ける」福神とされ、6本の手には衆生を救済し福徳を授けるとされる様々な道具も持っており、合体することでよりご利益が増えると考えられました。この三面大黒を最初に信仰されたのが日本天台宗の宗祖である伝教大師最澄さまであり、また豊臣秀吉公も出世を願って三面大黒を信仰したことで「豊太閤」となったと伝えられています。
(出典:境内案内板)
石碑群
■ 琵琶
不忍池辯財天は、変わった石碑・慰霊塔があることでも知られます。
本堂の前には、弁財天のシンボルである琵琶。
■ めがね之碑
中央のめがねは、徳川家康が愛用していたもの。
■ 暦塚
全国団扇扇子カレンダー協議会の会員により建立。
日時計の文字盤がデザインされています。
■ 魚塚
東京魚商業協同組合により建立。
組合創立50周年を機に、水揚げされた魚のために建てられた慰霊塔です。
■ ふぐ慰霊碑
東京ふぐ料理連盟が、ふぐの霊を供養するため建立。
■ スッポン感謝之塔
滋養、食材のため命を落としたスッポンに感謝する塔。
■ 鳥塚
東京食鳥鶏卵商業協同組合・東京都食鳥肉販売環境衛生同業組合により建立。
■ 包丁塚
上豊調理師会により建立。
■ 扇塚
日本舞踊家、初代花柳寿美の舞扇を納めた碑。
■ いと塚
三味線や琴などに使われた糸に対する感謝の意を込めた塚。
■ 櫛淵碑
一橋徳川家に召抱えられ、以後3代にわたり徳川将軍直々の護衛役として仕えた、
櫛淵彌兵衛宣根の碑。
* * *
けっこうな数の石碑を紹介したつもりでしたが、他にもまだあるようです。
とてもユニークなものばかりなので、じっくり見て回るのも楽しいですね。
御朱印
最後に御朱印です。
こちらは、辯才堂のもの。
こちらは、大黒天堂のものです。
★ブログランキングに参加しています★
-