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川越城本丸御殿(埼玉県川越市) ~小江戸川越をめぐる旅 8/12~

川越城本丸御殿

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三芳野神社のすぐ近くには、川越城本丸御殿があります。

 

 以前、静岡県掛川城を訪れた際、

「埼玉から来たんじゃ、川越城の本丸御殿に行った方がいい!!」

と、ガイドのおじさんから激推しされたことがありました。

なんでも全国に4つしかない現存御殿のひとつで、

さらに大広間の現存は川越城高知城の2つしかない、

とても貴重な建造物だと言うのです。

 

川越城本丸御殿について少し調べてみると、

明治に入り「廃城令」によって城内の多くの建物が移築・解体されたそうです。

それを免れたのは、玄関の一部・大広間・家老詰所の3箇所のみ。

現在は埼玉県指定文化財となっています。

 

 

 川越城の歴史

 

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川越城の歴史】
 川越城は、扇谷上杉持朝が長禄元年(1457年)に太田道真(資清)・道灌(資長)父子ら家臣たちに命じて築城させた城です。当時、持朝は山内上杉房顕と連合し、古河公方足利成氏と北武蔵の覇権をめぐって攻防を繰り返していました。築城は扇谷上杉領の北端の拠点とするためと考えられます。
 小田原を拠点に武蔵への進出を図る後北条氏は、天文6年(1537年)に川越城を攻め落としました。天文15年(1546年)、扇谷上杉氏は当時対立していた山内上杉氏古河公方と共に、川越城奪還を図りましたが、後北条軍の奇襲にあって大敗し(川越合戦)、後北条氏は北武蔵への支配を固めていきました。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の関東攻略に際し、川越城前田利家らに攻められて降伏しました。同年8月、徳川家康江戸城に入ると、江戸に近い川越城には重臣酒井重忠を置き、その後も幕府の有力な大名たちが川越領を持つことになりました。
 寛永16年(1639年)、川越城主となた松平信綱川越城の拡張整備を行い、本丸・二ノ丸・三ノ丸・追っ手曲郭・新曲郭などの曲輪、3つの櫓、13の門からなる、総面積約9万9千坪(約32万6千㎡)余りの規模をもつ巨大な城郭になりました。
(出典:川越城本丸御殿パンフレット)

 

 

 本丸御殿内部

玄関

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大きく立派な玄関は、見学の入館口にもなっています。

 

 

大広間

玄関を入ってすぐのところにある大広間(撮影禁止)。

36畳の広さを持ち、御殿で2番目に大きかったとされるこの広間は、

来客の際、城主がお出ましになるまでの間、待機させておく部屋だったそうです。

 

廃城令後の大広間(+玄関)は、なにかとおもしろい歴史を刻むことになります。

廃藩置県により川越に県庁が置かれると、庁舎として使われました。

県庁が移転すると、入間郡公会所に。

大正時代は煙草工場、昭和時代は武道場から中学校の仮校舎・屋内運動場。

再び「川越城本丸御殿」として整備されたのは、昭和42年のことだそうです。

 

体育の授業でしょうか???

広間の天井には、バレーボールをぶつけた跡が残っているのも有名な話です。

 

 

家老詰所

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川越藩の藩政を行う家老が常駐する部屋、家老詰所。

なにやら話し合いをしている様子が再現されています。

 

この建物は明治初期に解体され、ふじみ野市の商家に再築されましたが、

昭和62年に川越市に寄贈され、現在の場所に移築されたそうです。

 

 

その他

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その他の部屋は「○○の間」と書かれた札がある程度で、

私のような城素人には各部屋の違いがまったくわかりませんでした。

こういった施設は、建築様式なんかを楽しむ感じなんでしょうかね???

 

 

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建築様式と言えば、、、

格子から庭を眺めていたところ、後ろから男性の声がしました。

「この格子の閉め方わかりますか?」

よく見ると格子が二重になっています。

奥の板をスライドすると、窓が閉まる仕掛けになっていました。

こういうのも、教えてもらわないとなかなか気づけないですよね。

(その男性は、ガイドの方なのか、お客さんなのか・・・謎です!)

 

模型やパネルで川越城の歴史を紹介する、展示室もあります。

 

* * *

 

本丸御殿周辺では、富士見櫓跡など川越城の名残を多く見ることができます。

この旅では川越の観光地をブワーッと巡っていますが、

今後、川越城をポイントにした旅をしてみようかと計画中。

その時にでも、もっと詳しく川越城をご紹介できたらいいなと思います。

 

 

 

 

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川越城本丸御殿】
所在地:埼玉県川越市郭町2-13-1
アクセス:東武東上線本川越駅」より巡回バス
入館料:100円(一般)、50円(大学生・高校生)
開館時間:9:00~17:00(最終入館16:30)
休館日:月曜日・毎月第4金曜日(休日の場合は翌日)、年末年始
駐車場:有
(※2014年12月6日付けの情報です。)

伊奈氏屋敷跡(埼玉県伊奈町) ~伊奈町の伝説をめぐる旅 1/7~

※この記事は、都合上、一部内容を変更して書き直しています。

前の記事にスターをくださった皆様、申し訳ありません・・・。

伊奈町の伝説

前回、伊奈町のクレープ屋さんについて投稿しました。

いいタイミングなので、

以前、伊奈町をぶら旅した時のお話も書いておこうと思います。

 

2019年5月。

私は、伊奈町の公式サイト内で紹介されていた『伊奈町の伝説』をめぐりました。

 

伊奈町に残る伝説は全9話。

その内容は『まんが日本昔ばなし』を怪談化したような、

リアリティに欠けるものが殆どなのですが、

お話の舞台となった場所が特定できたことで僅かな信憑性に期待を抱いた私は、

(作り話でしょ!で終わらせるのはつまらないですからね。)

近所ということもあり出かけてみることにしました。

 

自力で突き止められなかった場所に関しては、伊奈町HPに問い合わせ。

担当の方が道順などを詳しく説明してくださいました。

ご協力ありがとうございました。

 

伝説スポットは、志久駅、丸山駅、沼南駅を中心に点在しています。

距離があるので、今回は車でめぐっています。

ニューシャトルの各駅にはレンタサイクルもあります。

 

 

伊奈町の伝説 1 『足立ぬ』

【足立ぬ】
 昔、聖徳太子が、東国をまわっていたときのことです。
 太子の一行は、甲斐国山梨県)から武蔵国に入り、後に「大空の月も草から出て草に入る」という言葉ができたほどの、広々とした武蔵野の原野にさしかかりました。一行は、一路筑波山を目指していたのです。
 ところが、生い茂る草を踏み分けながら、現在の入間郡から北足立郡に入った時のことです。
 富士の高嶺も元気に上り下りしていた太子の乗馬が、ふと拳のような小さな石につまずいて転んでしまったのです。
 太子は、身を躍らせて飛び下りたのでけがもされませんでしたが、太子の愛馬は倒れたままで全身から脂汗を流し、口からは泡を吹き、さらに四肢を引きつらせてしまい、苦悶する様子は見るに堪えないほどでした。
 従者達は薬を与え、小川から水を汲んできて一生懸命手当てをしたのですが、馬の容態はますます悪くなるばかりで、目を引きつらせ、ついに危篤に陥ってしまったのです。
 太子は、これ以上はもう人力の及ぶところではないと思い、草を折り敷いてそこに座り、はるかに大和国奈良県)の都の空に向って目を閉じ、丹精を凝らして念持仏の赤栴檀(せんだん)の聖観音に祈り、観音経三巻を読み、さらに「南無観世音菩薩」と数十遍繰り返しながら病馬の頭をなでていました。
 すると、何とあれほど瀕死の容態であった病馬は、しばらく両目を閉じて安らかに眠ったと思うと、急にすっくと立ち上がり、都の方に首を向けて三度勢いよくいなないたのです。
 太子はこれを見て、喜びのあまり声高く「足立ぬー足立ぬ」と叫びました。
 それ以来、この土地の人々はこの地方を「足立の郷」と呼ぶようになったということです。
(出典:伊奈町HP

最初にご紹介する伝説は、伊奈町が属する『北足立郡』の地名の由来です。

 

聖徳太子の言葉が基になっていたんですね。

隣町に住んでいながら、まったく知りませんでした。

町内の学校では、歴史の授業で教わったりするのでしょうか?

余談として話すには、おもしろい伝説だなと思いました。

 

東京都にも『足立区』があります。

この地名も北足立郡が由来していると言われているそうです。

(諸説あり)

 

 

伊奈氏屋敷跡

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『足立ぬ』という伝説にまつわるスポットとして、伊奈氏屋敷跡を訪れました。

ニューシャトル「丸山駅」から徒歩5分ほどの場所にあります。

 

伝説では郡名の由来について語られていましたが、

こちらは現在の地名『伊奈町』の由来となった場所です。

 

 

 

 伊奈備前守忠次

伊奈氏屋敷跡とは、伊奈忠次が暮らしていた屋敷跡です。

 

伊奈忠次は、徳川家康に仕えた代官頭のひとりで、

家康が関東入国の際、武蔵国足立小室・鴻巣に1万3000石を与えられ、

伊奈町小室に陣屋を構えたそうです。

関東を中心に、新田開発、検地、河川改修などを行い、幕府に貢献。

その時代、江戸周辺で荒川や利根川の氾濫が相次ぐ中、

特に治水事業で多大なる功績を残した人物だそうです。

 

忠次が築いたとされる堤防は「備前堤」と呼ばれ、現在も残っているとのことです。

 

 

裏門跡

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丸山駅から最も近い入口、裏門跡から入ります。

 

 

 障子堀

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裏門付近には、障子堀。

保存のため埋められていますが、この野原一帯に掘られているようです。

 

それにしても、草が生えすぎて、案内板まで行くのにも一苦労・・・。

 

 

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案内板に障子堀の写真がありました。

このような形で掘られているのですね。

 

 

 道

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道なりに進みます。

くねくねとカーブの多い道が続きます。

この道も当時の名残で、

見通しを悪くするためにわざと折り曲げているのだそうです。

 

 

 陣屋跡・蔵屋敷

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ここから、森の中へ入ります。

この先は陣屋や蔵屋敷があったとのことですが、建物は少しも残っておらず、

土塁や堀が確認できる程度でした。

 

 

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森は散策路になっています。

 

 

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この山になっている部分が土塁でしょうか?

 

 

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このような矢印案内しか出ていないので、

私のような城素人には詳細を記した案内板がほしいところです。

 

 

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しばらく森の中をさまよいます。

私が見学中、他の見学者どころか住人すら見ることはありませんでした。

女ひとりで森を歩くのは、少々恐怖を伴います。

 

 

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森を抜けると、再び舗装された道に。

この道も大きく曲がっています。

 

 

 二の丸跡

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道を進むと開けた場所に出ました。

二の丸跡です。

居住スペースと言ったところでしょうか?

 

 

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石碑と案内板の向こうには、広い野原が広がっていました。

奥に段差がありますね。

これも、名残かと思われます。

 

案内板によると、

このあたりでは美濃焼伊万里焼など、陶磁器の破片が出土されたそうです。

この遺跡で出土された伊万里焼が、実際どの年代の物かわかりませんが、、、

江戸時代初期に作られた伊万里焼は特に高級品として扱われ、

上級武家屋敷など限られた遺跡のみでしか出土されないそうです。

 

 

 表門跡

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最後に表門跡です。

二の丸の左側を少し回った場所にあります。

『表門跡』と書かれた標柱がひっそりと立っているだけですが、

この標柱がひっそりしすぎて探すのが大変でした。。。

 

* * *

 

「女ひとりで森を歩くのは、少々恐怖を伴います。」と書きましたが、

この時の恐怖は「もし、危険な人と遭遇してしまったら・・・」という、

ヒトコワの意味でした。

ところが、後で調べてみたところ、巷では心霊スポットとして有名らしいのです。

行く前に知らなくてよかった~!!

決して危険な場所ではないのですが、いろんな意味のスリルを感じられる場所。

特に女性のひとり探索は、十分にお気をつけください。

 

 

 

 

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【伊奈氏屋敷跡】
所在地:埼玉県北足立郡伊奈町大字小室164(裏門跡)
アクセス:ニューシャトル「丸山駅」より徒歩5分
駐車場:無
伊奈町公式サイト:https://www.town.saitama-ina.lg.jp/
(※2019年5月12日付けの情報です。)

御城印帳

御城印

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御朱印の次は、御城印がブームになっている様子です。

お城の名前に家紋の印がかっこいいですね。

御城符とも呼ばれるそうです。

 

私も先日、御城印デビューしてしまいました。

神社仏閣同様、城跡もよく行くので、記念と記録になって嬉しいです。

 

 

 

 

御城印帳

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ネットで御城印帳を購入しました。

御城印は書置きタイプが主のようで、

御城印帳も貼り付けるタイプとポケットタイプがありました。

御朱印もそうなのですが、あまりのりで貼るのは好きではないので、

ポケットタイプの方にしてみました。

 

ちなみに菅谷城の御城印は2サイズあり、

どちらの御城印帳にも対応できるようポケット用サイズを購入しています。

 

 

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中は御朱印帳と同じく、蛇腹になっています。

表面には透明のフィルムが貼られており、上から差し込むことができます。

 

 

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さっそく、菅谷城の御城印を入れてみました。

このような感じになります。

 

 

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裏面はただの紙なので、

チケットを貼ったり、スタンプを押したり、情報をメモしたり、、、

旅の思い出を自由に残すことができます。

 

私はとりあえず、御城印についてた由緒書を貼っておきました。

 

 

問題点???

ポケットタイプの御城印帳。

のりを使わず奇麗に保存できるので、形的には気に入っているのですが、、

ちょっとした問題点が。

御城印とサイズが合わない!!!

ポケットが若干小さく、御城印を少し切りました。。。

 

まだ始めたばかりで、そのへんの事情がわからず困惑。

寺社の御朱印でもよくあることですが、

お城によって半紙のサイズがバラバラということも十分ありますね。

 

御朱印ほど頻繁に収集できるものでもなさそうなので、

もう少しこのまま様子を見てみようと思いますが、

やはりポケットタイプははずせません。

かなりのお気に入りです。

なので、サイズだけどうにかしてくれると有難いです!!(切実)

 

 

 

 

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菅谷館跡/埼玉県立嵐山史跡の博物館(埼玉県比企郡嵐山町) ~節分!鬼に会いに行く旅 3/3~

【2020/02/01 ぶら旅コース】
鬼鎮神社ラーメン五月菅谷館跡/埼玉県立嵐山史跡の博物館

菅谷館跡(菅谷城)

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鬼鎮神社が鬼門除けとして守護したとされ、『続日本100名城』にも選ばれている、

菅谷館(菅谷城)にも行ってみました。

 

菅谷館は、鎌倉時代、武蔵の武士『畠山重忠』の居館だったのですが、

戦国時代に入ると戦に備えた城に改築・増築されていったのだそうです。

現在残っているのは戦国時代の城跡で、

山内上杉氏と扇谷上杉氏が戦った長享年中の大乱(1487~1505)の中、

再整備されたと考えられているそうです。

 

隣接する博物館でいただいたガイドに沿って城内をめぐりました。

案内板でいうと、白く塗られた博物館をスタート地点とし、

右側から回っています。

東京ドーム3個分の面積。

順路通りに歩くと30~40分のコースです。

 

 

喰い違い虎口(伝搦手門跡)

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伝搦手門跡(でんからめてもんあと)

城内への入口に当たります。

 

城への入口や城内の郭への入口を『虎口(こぐち)』と言うそうです。

当時は土塁を前後に3mほどずらした『喰い違い虎口』というもの。

土塁を食違いに設置することで路がS字になり、

外部から侵入し辛くなっているのだそうです。

 

当時の城の入口は、現在も駐車場の入口となっています。

 

 

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駐車場への道の脇は、こんもりとした土塁がありました。

 

 

 木橋&正坫門跡(蔀土塁・三ノ郭)

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入口から、三ノ郭へ向います。

建物が一部でも残っていればイメージしやすいのですが、

私には城の知識がまったくないので全てが同じ景色に見えます。笑

 

 

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三ノ郭エリアであろう道を進んで行くと、橋が見えてきました。

このあたりが三ノ郭の西側の虎口『正坫門跡(しょうてんもんあと)』

かと思われます。

 

 

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堀にかかったこの木橋を渡ると西ノ郭に出ます。

 

この木橋は、当時架けられていたであろう橋を再現したもの。

この下の堀に橋脚の基礎と見られる石積みが発見され、

そのことから橋が架かっていたのでは?と考えられているのだそうです。

しかし、実際の橋の構造は未だ不明とのこと。

 

 

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橋の手前には『蔀土塁(しとみどるい)』

西ノ郭から三ノ郭内の様子を見通せないよう遮る役目があるそうです。

案内板の奥の小さな山が、その土塁です。

 

平安時代の邸宅で風雨や日光を遮る道具の『蔀』から名前を取り、

視線を遮る目的とした土塁を『蔀土塁』と呼ぶのだそうです。

 

 

 畠山重忠

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二ノ郭へ行くと、元家主である畠山重忠の像がありました。

 

 

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畠山重忠(はたけやましげただ)】
畠山重忠は、長寛2年(1164年)に畠山重能の次男として畠山(深谷市)で生まれたと伝えられ、文治3年(1187年)11月までには菅谷館に移り住みました。重忠は、宇治川の合戦、一の谷合戦、奥州攻めなどで功績をあげた有力な鎌倉御家人でした。しかし、元久2年(1205年)、北条氏の策略によって、二俣川(神奈川県横浜市旭区)で42歳の生涯を終えました。
(出典:埼玉県立嵐山史跡の博物館パンフレット)

 

 

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この視線の先には、鎌倉があるそうです。

 

* * *

 

私はここに来るまで、この方の存在も知らなければ、

名前すら聞いたことがありませんでした。

ところが、調べているうちに、過去に1度お会いしていることが判明。

そのブログ記事がこちらです↓ ↓ ↓ 

www.mi-cha34.com

 

 

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武蔵御嶽神社の宝物殿の前にいらっしゃいました。

この時は「この人誰?」と思いながらも、

宝物殿が休館日だったこともあってそのままスルーしていました。

 

 

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像にも名前が書かれていましたね。

 

ちなみに、この宝物殿には畠山重忠が奉納したという、

赤糸威大鎧(あかいどおどしのおおよろい)が展示されているそうです。

その鎧は、日本三大鎧に数えられ、国宝に指定されています。

 

 

 出桝形土塁

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南郭を回り、城の中核、本郭に来ました。

戦国時代に拡張されていますが、

畠山重忠の館もこの郭内にあったのではないかと言われているそうです。

 

 

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本郭周辺は、一際高い土塁で囲われていました。

『出桝形土塁(でますがたどるい)』と呼ばれるそうです。

 

この形状は、敵が侵入してきた際に、横から矢を射ることができるなど、

効果的に防げるような構造なのだそうです。

 

 

 生門跡

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本郭の東の土塁が途切れた部分は、

本郭の出入り口のひとつだと考えられている『生門跡(しょうもんあと)』

 

 

 建物跡&井戸跡

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ぐるっと回って、博物館へ戻ってきました。

城でいうと、三ノ郭エリアです。

 

博物館前には、いくつもの杭が打たれていました。

このあたりでは、掘立柱建物4棟、井戸跡3か所、溝跡などが発見され、

そのうち掘立柱建物1棟、井戸跡1か所の位置を示しているそうです。

 

 

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建物跡。

 

 

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井戸跡。

地面が少し窪んでいました。

これが、井戸の名残でしょうか???

 

 

御城印

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博物館にて、御城印が配布されていました。

初の御城印です。

ちなみに200円でした。

 

 

 

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半紙は、嵐山町のお隣、小川町で作られている細川紙

ユネスコ無形文化遺産に登録されているそうです。

 

 

埼玉県立嵐山史跡の博物館

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御城印をいただいたのは、埼玉県立嵐山史跡の博物館。

館内では、埼玉県内で発掘された史跡が展示されています。

 

 

 

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このような展示が行われていたので、ついでに見て帰りました。

 

常設展を含め、入館料100円。

JAFカードお持ちですか?」と聞かれたので、

持っていればさらにお安く入れると思います。

 

 

旅の終わりに・・・

【ぶら旅メモ】
交通費:300円
参拝費:1005円
その他観光:300円
飲食代:1168円
合計:2773円
歩数:8569歩

節分が近いということで、鬼を祀る神社を訪れました。

片道1時間半のドライブ。

道中、とあるテクノグループの鬼にまつわる曲を聴いていたのですが、

神社にあった鬼の絵と曲の鬼がマッチしていたので、

初参拝にもかかわらず妙な親近感がありました。

 

その行いがよかったのか(多分違う・・)、

神社では宮司さんのおかげで、節分前にたくさんの福をいただきました。

宮司さんと2人で「ラッキー☆」と言いあったこと、

あれから数日経ちますが、未だに思い出してはじわじわ来ています。

本当に本当に、ありがとうございました。

来年は是非、節分祭に参加したいですね。

 

 

www.mi-cha34.com

↑この記事にも書いていた、

『御城印を始める』もスタートを切ることができました。

菅谷館に御城印があることを知らなかったので、

見つけた時は「ラッキー☆」と口走ってしまいました。

(ラッキーが口癖になりそうです。笑)

 

私は日本史やお城も好きなのでよく行くのですが、、、

詳しい歴史や知識がまったく追いつきません。

もっと深く知っていれば、さらにおもしろく見学できるのに・・・

ちょっともったいないですよね。

御城印を始めて、さらにお城へ行く機会が増えると思うので、

少しずつでも歴史の勉強をしておこうかなと考えています。

 

* * *

 

嵐山町は嵐山渓谷やラベンダー畑、その他寺社など、

今回訪れた場所以外にも、素晴らしい観光スポットがたくさんあります。

紅葉や花の時期に再訪したいと思います。

 

 

 

 

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【菅谷館/埼玉県立嵐山史跡の博物館】
所在地:埼玉県比企郡嵐山町大字菅谷757
アクセス:東武東上線武蔵嵐山駅」より徒歩15分
開館時間:9:00~16:30(7、8月は17:00まで)
休館日:月曜日(祝日の場合は開館)、年末年始
入館料:一般100円、高校生・学生50円(博物館)
御城印:有
駐車場:有
公式サイト:http://www.ranzan-shiseki.spec.ed.jp/?page_id=13
(※2020年2月1日付けの情報です。)

岩槻城跡/岩槻城址公園(埼玉県さいたま市) ~納経とラーメン食べ納めの旅 4/4~

【2019/12/22 ぶら旅コース】
慈恩寺 玄奘塔大手門岩槻城跡(岩槻城址公園) 

番外編

今回のぶら旅では訪れていませんが、

記事の中で岩槻城について少し触れた箇所があったので、

ついでに岩槻城跡もご紹介しておきます。

 

 

岩槻城

川越城忍城と共に埼玉県内三名城のひとつに数えられている岩槻城

元禄元年(1457年)、太田道真・道灌父子により築城されたと言われています。

忍城主成田親泰の祖父成田資員の説も有り)

16世紀後半まで太田氏が城主でしたが、豊臣秀吉による小田原討伐で落城。

その後は、有力な譜代大名の居城となったそうです。

 

 

岩槻城址公園

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現在は、公園として整備され城の面影を残しています。

 

 

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入口には、岩槻城の配置と現在の地図を合体させた案内板。

かなり広い敷地だったようです。

 

地図の中央には「大手門」という文字。

トーフラーメンの店名は、ここから取ったのでしょうか?

www.mi-cha34.com

 

 

f:id:mi-cha34:20191227223338j:plainここちらの公園は桜の名所としても有名で、

春になると満開の桜がこの池を囲います。

真っ赤な橋もポイント。

美しい風景を写真に収めようと、大きなカメラを持った人々が集まります。

 

 

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広場では散歩はもちろん、芝生の上でピクニックを楽しむファミリーも。

子どもの遊び場もあります。

他にも、テニスコートなどスポーツ施設も併設されているので、

毎週末駐車場は満車状態だったりします。

 

 

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ロマンスカー「きぬ」も展示されています。

 

 

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変わった時計を見つけました。

 

 

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さすが人形の町、日本人形をあしらった時計です。

文字盤が漢数字なところがかわいいです。

時間ごとにからくりがあるそうなのですが、それを見たことはありません。

 

 

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さらに人形塚もあります。

 

 

城の名残

石碑

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 園内には城の名残もしっかり見ることができます。

岩槻城の別名「白鶴城」と書かれた石碑。

他に「浮城」「竹束の城」とも呼ばれていたそうです。

 

 

 黒門

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岩槻城の城門と言われている門。

木材部分が黒く塗られていることから「黒門」と呼ばれています。

 

 

 岩槻城裏門

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こちらは裏門。

 

 

 堀障子

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もともとお堀であった場所には、

発掘調査の結果、堀障子があることが確認されたそうです。

 

堀障子とは、堀に設けられた障害物のこと。

堀の底に段差を作ることによって、敵の侵入を妨げるというわけですね。

 

 

 厠

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お城の雰囲気を醸し出したトイレ。

これはただのトイレです。笑

 

* * *

 

私は城を見るのは好きなのですが、城に関する知識がまったくありません。

なので、完全に案内板頼りです。

園内には案内されていない場所からも城の名残が伺えるそうです。

地形など注意して見てみると、もっと岩槻城を感じられるかもしれません。

 

 

御城印(2021/07/23追記)

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後日、御城印を入手してきたので追記します。

 

 

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御城印。

 

 

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期間限定の武将印/右と武将(?)印/左です。

 

 

岩槻城の御城印・武将印の詳細はこちら↓↓↓ 

www.mi-cha34.com

 

 

旅の終わりに・・・

 【ぶら旅メモ】
交通費:0円
参拝費:355円
飲食代:850円
合計:1205円
歩数:4584歩

今年も残すところあと数日。

「○○納め」という言葉が飛び交う時期です。

私も無事、写経を納め、ラーメンを食べ納めることができました。

そして、年内の仕事も終了。

着々と新年を迎える準備が整ってきています。

が、しかし。

2019年のぶら旅がまだ終わっていません。

もう少しぶらぶらします。

なので、この調子だと年が明けてもしばらくは去年の記事を書いていますね。

きっと。

 

 

 

 

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岩槻城岩槻城址公園】
所在地:埼玉県さいたま市岩槻区太田3-4
アクセス:東武野田線岩槻駅」より徒歩25分
駐車場:有
(※1年以上前の情報です。)