関東ぶらりん旅

神社仏閣、B級スポット、ご当地グルメを楽しむ旅(散歩)

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ペコちゃん焼き/不二家 飯田橋神楽坂店(東京都新宿区) ~幸せの四社巡り 6/11~

【2022/06/11 ぶら旅コース】
KOUJI SANDWITCH櫻木神社愛宕神社(平成30年参拝) → 大宮氷川神社

【2022/06/25 ぶら旅コース】
東京大神宮不二家

【2022/07/09 ぶら旅コース】
報徳二宮神社・報徳博物館きんじろうカフェ小田原城址公園鈴廣北条氏政・氏照の墓所  

 

不二家

参拝を終えおみやげを買いに神楽坂の不二家に向かいました。

 

 

飯田橋神楽坂店には、ここでしか食べられないペコちゃんスイーツがあるのです。

 

 

ぺこちゃん焼き(味により200円前後)

日本で唯一のペコちゃんスイーツとは『ぺこちゃん焼き』
ペコちゃんの今川焼のようなものです。

 

 

箱を開けると、ペコちゃんズラリ。
味は定番+月替り限定の計10種類。

<定番>
・ミルキークリーム
・カントリーマアムクリーム
・極みこしあん
・十勝あん(つぶ)
・カスタード
・チーズクリーム
・板チョコ
<6月限定>
・抹茶クリーム
・東京蜂蜜バターあん
・マンゴークリーム

とりあえず、全部買ってみました。

 

 

え・・・怖い。
ちょっとホラーチックなぺこちゃんです。
私は板チョコ・ミルキー・抹茶・カントリーマアムを食べました。
板チョコは溶けて『板』ではなかったけど、トロッとしておいしかったです。

ペコちゃん焼きには、たま~にペコちゃんのボーイフレンドのポコちゃんが入っていることがあるそうです。
私の前にいたお客さんが店員さんに「ポコちゃん入りますか?」と聞いていました。
すると「わかりません。ポコちゃんはラッキーボーイなので。」と店員さん。
私が買った箱に、ラッキーボーイはいませんでした。。。

 

 

Twitterから味のリクエストをすると、実現するかもしれません。
私だったら何味がいいかな・・・カレーなんかどうでしょう。笑

 

 

旅の終わりに・・・

【ぶら旅メモ】
交通費:1364円
参拝費:805円
おみやげ代:2060円
合計:4229円
歩数:5464歩

この日は2カ所をめぐって終了です。
この近くには神田明神小石川後楽園などの寺社・観光地が多くありますが、これはまた別の機会に。
正直、暑くて他を回る余裕がありませんでした。。。

幸せの四社巡りもリーチ。
あとは神奈川県を残すのみです。

 

 

 

 

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不二家 飯田橋神楽坂店】
所在地:東京都新宿区神楽坂1-12
アクセス:JR『飯田橋駅』より徒歩1分、
営業時間:10:00~20:00
定休日:年中無休
駐車場:無
公式サイト:http://pekochanyaki.jp/
(※2022年6月25日時点の情報です。)

東京大神宮(東京都千代田区) ~幸せの四社巡り 5/11~

【2022/06/11 ぶら旅コース】
KOUJI SANDWITCH櫻木神社愛宕神社(平成30年参拝) → 大宮氷川神社

【2022/06/25 ぶら旅コース】
東京大神宮不二家

【2022/07/09 ぶら旅コース】
報徳二宮神社・報徳博物館きんじろうカフェ小田原城址公園鈴廣北条氏政・氏照の墓所 

 

東京大神宮

 鳥居

幸せの四社巡りの3社目は、東京都千代田区飯田橋に鎮座する、東京大神宮です。
都内の格式高い神社、東京五社のひとつ。

私が初めて神社の御朱印をもらったのが、この東京大神宮でした。
それにちなんで、令和元年初日にも御朱印をもらいに来ています。
伊勢神宮出雲大社式年遷宮が重なった年には出雲大社東京分祀と一緒にめぐり、恋愛に悩んだ友人に付き添ってお参りに行ったこともありました。
ブログを書きながらそんなことを思い出し、結構な頻度で訪れていることに自分でもびっくりしてしまいました。

 

神門

こちらの神社は「縁結びの神様」として有名で、女性にとても人気があります。
この日も境内は女性の参拝客でいっぱいでした。

 

 

拝殿

【御祭神】
天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
豊受大神(とようけのおおかみ)
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
高御産巣日神(たかむすびのかみ)
神産巣日神(かみむすびのかみ)
倭比売命(やまとひめのみこと)

【御由緒】
江戸時代、伊勢神宮への参拝は人々の生涯かけての願いでした。
明治の新国家が誕生すると、明治天皇のご裁断を仰ぎ、東京における伊勢神宮の遥拝殿として明治13年1880年)に創建された当社は、最初日比谷の地に鎮座していたことから、世に「日比谷大神宮」と称されていました。関東大震災後の昭和3年(1928年)に現在地に移ってからは「飯田橋大神宮」と呼ばれ、戦後は社名を「東京大神宮」と改め今日に至っております。
現在広く行われている神前結婚式は当社の創始によるものであり、今も神前において伝統的な結婚の儀式を守り伝えております。
(出典:パンフレット) 

もともとはお伊勢参りに行けない人々が拝めるように建立されたようですが、日本で最初に神前結婚式が行われたことや、結びの神様がお祀りされていることから縁結びのご利益を求めて訪れる人が多くなったそうです。

拝殿でお参りをし、最後の一礼をして頭を上げると、目の前をアゲハ蝶が通りました。
そのアゲハ蝶が飛んでいく方向に目をやると、そこには花嫁さんが。
この日も結婚式が行われていました。
私も幸せな気持ちになりました。

 

 

境内

飯富稲荷神社

神門の並びに鎮座する、稲荷神社。
日比谷大神宮の頃には境内社として奉斎されていたお社で、明治時代に活躍した歌舞伎役者9代目市川團十郎が信仰していたことから芸能の神様としても知られています。

 

 

ハートマーク探し

「境内でハートマークを探すと御利益UP!!」なんて言われているとかいないとか・・・。
このハートマークは、東京大神宮だけではなく、あらゆる神社で目にします。
私も最初はハートだと思っていたのですが、これは『猪の目』といってイノシシの目をかたどったもので、魔除けの意味があるんだそうです。
それでも見つけると、なんとなく恋愛運UPしそうな気がしますよね。

 

 

御朱印

幸せの四社巡りの御朱印

 

 

スタンプも残り1社となりました。

 

 

こちらは通常御朱印
私が初めてもらった時の御朱印です。
『宮』の口と口の間にノが入らないのが正式なんだそうです。

 

 

この2枚は、令和元年初日に参拝したもの。
飯富稲荷神社の御朱印は、令和記念の限定御朱印だったと思います。

 

 

令和版の御朱印はもらうのに2時間くらい並びました。
ものすごい行列・・・みんな考えることは一緒ですね。

 

 

 

 

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【東京大神宮】
所在地:東京都千代田区富士見2-4-1
アクセス:JR・東京メトロ都営地下鉄飯田橋駅』より徒歩5分
御朱印:有
オリジナル御朱印帳:有
駐車場:無
公式サイト:http://www.tokyodaijingu.or.jp/index.html
(※2022年6月25日時点の情報です。)

大石良雄外十六人忠烈の跡(東京都港区) ~忠臣蔵ゆかりの地をめぐる旅 7/7~

【2021/12/14 ぶら旅コース】
皇居東御苑新正堂・浅野内匠頭終焉之地元禄二八蕎麦 玉屋吉良邸跡大川屋泉岳寺大石内良雄外十六人忠烈の跡

 

大石内蔵助切腹の地

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泉岳寺の帰り際に渡された、大石内蔵助切腹の地のチラシ。

四十七士の切腹の地までは調べていなかったので「これはいい情報をもらった」と、

さっそく行ってみることにしました。

討ち入りの日とその直近の土日限定で特別公開されているようです。

チラシをくれたおばあちゃんに、

「先に行った人について行きなさい!急いで!急いで!」と急かされたので、

慌てて切腹地へ向かうであろう人を追いかけました。

 

 

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てか・・・誰もいないじゃん!!!

仕方ないので、地図を頼りに目的地に向かいます。

それにしても何でしょう、、この道は。

どこに続いているのか?通っていい道なのか?不安ばかりです。

とぼとぼとひとり歩いていると、後から数名の人が来ました。

「前の人を追いかけるように言われて・・・」

みんな私と同じことを言われたようです。

ここから見ず知らず同士のグループで、一緒に行くことになりました。

何を話すわけではないけれど「あっちかな?こっちかな?」と、

それだけでもなんだか楽しい時間でした。

 

泉岳寺のすぐ近くだと思っていたのですが、

歩けど歩けどそれらしき場所が見つかりません。

というか、歩くには地図が広域すぎるんですよね・・・。

結局、通りすがりの人に道を教えてもらいました。

 

 

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泉岳寺から10分ちょっと歩いたところで、やっと出てきた案内板。

切腹地コチラです」的なこの案内・・・まるで私が切腹しにやって来たような。

妙なおかしさを感じてしまいました。

 

 

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大石内蔵助切腹の地は、集合住宅の一画にありました。

 

 

大石良雄外十六人忠烈の跡

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この辺りは肥後熊本藩細川家の下屋敷跡地で、

細川家のお預けとなった大石内蔵助他16名がこの地で切腹しています。

細川家の他に水野家・毛利家・松平家にそれぞれ数名ずつ送られていますが、

四十七士を英雄と見るか罪人と見るかで対応が違ったと言います。

細川家では衣食住の世話はもちろん嗜好品まで与えるなど、

預の身である大石らには贅沢すぎる待遇で、大石が断りを入れた程だったそうです。

 

 

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中はこのようになっていました。

周りに置かれた岩は、当時からあった物ではなくただの装飾。

中央の石は、この場で切腹が行われたという目印で置いてあるとのことです。

実際に残っているのは、土地のみということですね。

それでも石や落ち葉の演出がそれらしく、

私には里見浩太朗さん扮する大石内蔵助が見えたような気がしました。

当時のこの場所は、大書院舞台側、大書院上の間の前庭で、

背後に池がある位置で切腹が行われたそうです。

 

ガイドさんから切腹の様子についてお話をうかがいました。

他の家では1人の介錯人が複数人担当したところ、

細川家では1人につき1人の介錯人が用意されました。

正面だけ開けた囲いの中、畳3枚の上に白い布を敷いた場所で行われたそうです。

介錯人が首を落とし立会人がそれを確認すると、正面の戸が閉められ次の準備。

遺体は布の四隅を持ちながら運び、そのまま隅へ積まれて行きました。

それを17名分繰り返すわけですが、

すべてが終わるまで1時間かからなかったそうです。

 

それにしても、介錯の成功率ってどれくらいなんでしょうか?

素人目から見ても、映画やドラマのようにスパスパ切れるとは思えません。

そんな話をガイドさんに振ったところ、やはり失敗例も多いとのこと。

浅野内匠頭の首には、切り落とした部分とは別の切り傷が残っていたそうです。

 

大石内蔵助・主税のように、

父子または兄弟で討ち入りに参加していた者も多くいたようです。

それぞれ覚悟していたとは思いますが、

実際に畳の上に立った時、一体どんな気持ちで何を考えるのでしょう?

私には想像すらできません。。。

 

 

旅の終わりに・・・

【ぶら旅メモ】
交通費:2001円
参拝費:1305円
飲食代:1020円
お土産代:3289円
合計:7615円
歩数:21877歩

忠臣蔵ゆかりの地をめぐりました。

忠臣蔵は時代劇の中でもストーリー展開がシンプルで観やすく、

「滅びの美学」的な結末が私好みです。

今まで忠臣蔵は真実を描いていると思っていたのですが、

この旅で調べていくうちに実際とは異なる部分が多々あることを知り、

さらなる興味が沸いてきました。

このブログで終わりではなく、

これからも深堀りしていきたいなと思っているところです。

 

さて、今回の旅はとにかく移動が多く大変でした(天気も悪かったし)。

帰る頃には足がガクガク。

コースを変えればもっと簡単に回れたのですが、

どうしてもストーリーに沿ってめぐりたかったので、

山手線を行ったり来たり・・・東京駅を3回も素通りしました。

過ぎてみれば楽しい思い出ですが、その時は本当に辛かった・・・。

義士墓所から見た虹は、そんな自分へのご褒美だと思っています。

これを四十七士に言ったら「電車乗ってんだろ!!」と突っ込まれそうですが、

そう考えると江戸から赤穂まで歩く体力、、、半端ないですね!!!

 

吉良邸から泉岳寺まで、四十七士が歩いた道をたどるコースがあるそうです。

今年も行ける機会があったら、そのコースを歩いてみようかなと考え中です!

それまでに知識と体力つけとかなければ!!!

 

 

 

 

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大石良雄外十六人忠烈の跡】
所在地:東京都港区高輪1-4-6
アクセス:東京メトロ白金高輪駅」より徒歩4分、都営浅草線泉岳寺駅」より徒歩10分
駐車場:無
※通常は非公開。
(※2021年12月14日時点の情報です。)

赤穂義士墓所/泉岳寺(東京都港区) ~忠臣蔵ゆかりの地をめぐる旅 6/7~

【2021/12/14 ぶら旅コース】
皇居東御苑新正堂・浅野内匠頭終焉之地元禄二八蕎麦 玉屋吉良邸跡大川屋泉岳寺大石良雄外十六人忠烈の跡

 

高輪ゲートウェイ

討ち入り後、四十七士は討ち取った吉良の首を供えるべく、

主君浅野内匠頭が眠る泉岳寺へ向かいます。

私もそれを追って、両国から高輪ゲートウェイに移動しました。

真新しい高輪ゲートウェイ駅。

駅名でひと悶着あったという印象しかありませんでしたが、

とても近代的というか、まるで美術館にでも来たような美しい構内に感動しました。

JRでは高輪ゲートウェイ駅が泉岳寺の最寄り駅になります。

地下鉄の駅もありますが、極力JRで回りたいと思っていたので(地下鉄苦手)、

今回ばかりはこの駅の新設に感謝でした。

 

 

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街の掲示板には『義士祭』のポスター。

泉岳寺に近づくにつれて人もだんだんと増えて行き、

忠臣蔵のストーリーと共に周囲の雰囲気も盛り上がってきたように感じます。

 

 

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『四十七義士』と刻まれた石碑が出てきました。

泉岳寺まで、もう少し!!

 

 

泉岳寺

 中門

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泉岳寺に到着しました。

中門を通って、中に入ります。

 

 

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時間も遅かったので義士祭のイベントは終了してしまったようですが、

境内は屋台が並び、多くの参拝客で賑わっていました。

どしゃぶりだった雨も弱まり、青空が見えるように。

 

 

 大石内蔵助

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山門の前では、大石内蔵助がお出迎え。

鋭い視線は江戸の方向に向けられているそうです。

 

 

 山門

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かつては三門と言って、総門・中門・山門と3つの門が並んでいたそうです。

現在は中門と山門のみ。

 

 

銅彫大蟠龍

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山門の下で天井を見上げると、クルリと丸まった龍の姿を見ることができます。

 

 

 本堂

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【御本尊】
釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)

【宗派】
曹洞宗

【御由緒】
泉岳寺曹洞宗の寺院です。
曹洞宗のご本山は二つあり、一つは道元禅師が開かれた福井県永平寺、もう一つは横浜鶴見の總持寺です。
道元禅師の主著は仏教の真髄を表した『正法眼蔵』という95巻に亘る書物です。
さて、泉岳寺は慶長17年(1612年)に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を拝請して徳川家康が外桜田(現在の警視庁の近く)に創立した寺院です。
しかしながら寛永18年(1641年)の寛永の大火によって焼失。そして現在の高輪の地に移転してきました。時の将軍家光が高輪泉岳寺の復興がままならない様子を見て、毛利・浅野・朽木・丹波・水谷の五大名に命じ、高輪に移転した泉岳寺はできあがったのです。浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のものです。
一般的には赤穂義士のお墓があることで有名ですが、創建時より七堂伽藍を完備して、諸国の僧侶200名近くが参学する叢林として、また曹洞宗江戸三ヶ寺ならびに三学寮の一つとして名を馳せていました。
その家風は引き継がれており、人数は少ないものの、大学で仏教を学びつつ泉岳寺で修行を勤めるという若い修行僧が、現在もいます。
(出典:公式サイト

本堂には、大石内蔵助の守り本尊、摩利支天(秘仏)が納められています。

 

 

 赤穂義士墓所入口

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本堂をお参りした後、赤穂義士墓所へ向かいました。

 

【元禄16年2月4日】

主君の仇討ちを果たした四十七士は、

細川家・水野家・毛利家・松平家の4大名家のお預けとなります。

処分を検討した結果、幕府は彼らに対して切腹を命じます。

四十七士はそれぞれの預け先で切腹

遺骸は主君と同じく、泉岳寺に埋葬されました。

 

 

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泉岳寺の一画、門の先に墓所があります。

この門は、浅野家鉄砲州上屋敷(現聖路加病院)の裏門を明治時代に移築したもの。

入口にて、お線香を一束購入しました。

 

 

 浅野内匠頭の墓

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墓所入口の門をくぐると、赤穂藩浅野内匠頭の墓があります。

 

 

 瑤泉院の墓

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浅野内匠頭の手前には、正室瑤泉院の墓。

瑤泉院の墓といえば、西巣鴨妙行寺にもあったことを思い出しました。

四谷怪談のお岩さんのお墓のすぐ近く。

浅野家の墓と案内板があった記憶ですが・・・

この時はお岩さんメインの旅だったのであまり見ていませんでした。。。

 

www.mi-cha34.com

 

 

赤穂義士の墓

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浅野夫妻の墓を奥に進むと、石の柵で囲われた四十七士の墓があります。

なんと凄い人の数!!

お線香の煙で中の様子が見えません。

参拝客も年配の方から若い方まで、現在も忠臣蔵の人気がうかがえます。

 

 

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お墓の配置はこのようになっています。

四十七士は、預け先ごとにまとまって並んでいました。

 

 

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数十分並び、いよいよ中へ。

人の流れについて行く形で、ひとりひとりの墓碑の前にお線香を置いて行きます。

購入したお線香には火が着いていなかったので火はどこかと尋ねると、

係りの方から「置くだけで勝手に燃えます!!」と言われました。

「最近のお線香って勝手に燃えるの?」と不思議に思っていたのですが・・・

既に供えられたお線香の山は、燃え上がり炎が出ている状態。

それを見て「あぁ、そういうことね!」と納得しました。

 

墓碑の裏には名前と年齢が書かれた立て札がありました。

年齢は20~30代を中心に、下は10代、上は60代。

 

 

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大石内蔵助・主税親子の墓は、他のものより墓碑が大きく屋根付きと、

ちょっと豪華。

 

 

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戒名はみな、『刃』の文字で始まり『剱』の文字が入っています。

 

 

供養墓

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そんな中、他とは異なる墓碑がありました。

寺坂吉右衛門

『遂道退身信士』の戒名が刻まれています。

寺坂は討ち入り後に姿を消し、四十七士の中で唯一切腹を免れた人物で、

逃亡説・事の顛末を報告するため離脱した説・そもそも参加すらしていない説・・

といろいろ考えられていますが、真相は謎です。

寺坂は天寿を全うし83歳で病死、港区の曹渓寺に埋葬されました。

泉岳寺には明治元年に供養墓が建てられています。

 

また、間新六も墓碑は並ぶも埋葬はされていません。

遺体は家族に引き取られたそうです。

 

 

48人目の義士

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ここでもう1度、墓所の配置図を見直します。

お墓の数を数えてみると、四十七士のはずが48基あることに気づきます。

 

 

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萱野三平(享年28)。

江戸城で主君が起こした刃傷事件の第一報を赤穂へもたらした人物です。

江戸から赤穂まで17日かかるところを4日で走破したと言われています。

忠義心篤く討ち入りの参加を熱望していましたが、

周囲の猛反対に遭い討ち入り前(浅野の月命日)に自刃してしまいました。

明和4年、四十七と共に供養墓が建てられています。

 

 

 墓所からの眺め

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人の多さから流れ作業的にお線香を供え、墓所を出ました。

煙で目が痛いし、むせて咳込むしで、終始慌ただしかったです。

ただ、墓所に差し掛かった頃に雨がやんでくれたのは助かりました。

正直、傘を差しながらではきつかったと思います。

墓所を出たところで、近くにいたおじさんに「あっち見てみな」と言われました。

指さした方に目を向けると、空に虹が出ていました。

その虹を見て「今日は特別な日なんだな~」と、なんとなく思いました。

 

 

泉岳寺で感じる忠臣蔵

境内は墓所以外にも、忠臣蔵ゆかりのスポットがあります。

 

 

 首洗いの井戸

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吉良の首を洗ったと伝わる、首洗いの井戸。

この雰囲気とひんやりとした空気に、少しゾッとしました。

 

 

血染めの梅・血染めの石、瑤池梅

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浅野内匠頭が田村邸の庭先で切腹した際、その血がかかったとされる梅と石。

その先には、義士の墓守をした堀部妙海法尼が瑤泉院から賜った梅もあります。

 

 

 主税梅

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大石主税切腹した松平邸に植えられていた梅。

 

 

赤穂義士記念館・義士木像館

 赤穂義士記念館

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最後に、赤穂義士記念館を見学しました。

浅野内匠頭の陣笠、討ち入りの際に使用したという陣太鼓、書状、掛け軸などを

見ることができました。

 

 

 義士木像館

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赤穂義士記念館の入場券で入れる、義士木像館にも行ってみました。

明治2年までに作成された四十七士の木像が並んでいます。

木像館には人がおらず、1人色あせた古い像に囲まれ、怖かったです・・・。

 

 

御朱印

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御朱印は直書きでした。

時間がかかるとのことで、御朱印帳を寺務所に預け境内を回りました。

 

* * *

 

これにて『忠臣蔵ゆかりの地をめぐる旅』終了!!!のはずでしたが・・・

泉岳寺から駅へ向かおうとしたところ、

おばあちゃんに呼び止められチラシをもらいました。

そこには『切腹の地開場』の文字と地図が。

期間限定で大石内蔵助切腹地を公開しているとのことでした。

切腹の地は調べてなかった~!!!」

これに関しては調べるにも至らない程、思いつきもしなかった場所です。

これは教えてもらえてラッキー☆

さっそく地図を頼りに、切腹地へ向かいました。

忠臣蔵ゆかりの地をめぐる旅』延長戦です!

 

 

 

 

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【萬松山 泉岳寺
所在地:東京都港区高輪2-11-1
アクセス:JR「高輪ゲートウェイ駅」より徒歩7分、都営浅草線泉岳寺駅」より徒歩3分
御朱印:有
オリジナル御朱印帳:有
駐車場:無
公式サイト:https://sengakuji.or.jp/

赤穂義士記念館・義士木像館】
入館料:大人500円、中高生400円、小人250円(記念館・木像館共通券)
開館時間:9:00~16:00
(※2021年12月14日時点の情報です。)

忠臣蔵の吉良まんじゅう/大川屋(東京都墨田区) ~忠臣蔵ゆかりの地をめぐる旅 5/7~

【2021/12/14 ぶら旅コース】
皇居東御苑新正堂・浅野内匠頭終焉之地元禄二八蕎麦 玉屋吉良邸跡大川屋泉岳寺大石良雄外十六人忠烈の跡

 

大川屋

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泉岳寺に向かう前に、吉良邸跡の前にある和菓子屋さん、大川屋へ。

飯澄稲荷神社のお隣です。

 

 

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吉良上野介にちなんだ『吉良まんじゅう』があることを知り寄ってみました。

『墨田川』という最中も、有名なようです。

 

 

忠臣蔵の吉良まんじゅう(1個200円)

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吉良まんじゅうを3つ購入。

 

 

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饅頭には『吉良まんじゅう』と焼き印されていました。

 

 

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中の黄色い餡子は、きな粉餡です。

きな粉が入っているせいか、甘さ控えめ。

ふんわりときな粉が香って、とてもおいしいです。

切腹最中を2つ食べた後なのに、吉良まんじゅうも3つともペロリ。

甘い切腹最中と甘さ控えめの吉良まんじゅう。

この2つは対照的なおいしさなので、忠臣蔵めぐりのおみやげにおすすめです。

 

 

大川屋に寄った理由・・・

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実は、当初のぶら旅コースに大川屋は入っていませんでした。

吉良邸跡を訪れた時にお供えしてあった吉良まんじゅうを見つけ、

「なんだこれ!?」と思い検索したところ、大川屋を知ったのです。

お供え物ですら食べたくなる私、、、でも、知れてラッキーでした。

 

 

 

 

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【大川屋】
東京都墨田区両国3-7-5
アクセス:JR「両国駅」より徒歩5分
営業時間:9:00~18:00
定休日:月曜日
駐車場:無
(※2021年12月14日時点の情報です。)

吉良邸跡(東京都墨田区) ~忠臣蔵ゆかりの地をめぐる旅 4/7~

【2021/12/14 ぶら旅コース】
皇居東御苑新正堂・浅野内匠頭終焉之地元禄二八蕎麦 玉屋吉良邸跡大川屋泉岳寺大石良雄外十六人忠烈の跡

 

吉良邸跡

 外観

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吉良邸跡に来ました。

忠臣蔵の山場、討ち入り事件が起こった場所です。

住宅地の一画にあるこの屋敷跡は、

昭和9年に両国三丁目町会の有志によって作られた史蹟公園で、

歴史を後世に残そうと旧吉良邸の土地を一部購入、

後に東京都へ寄贈したものだそうです。

昔の地名から『本所松坂町公園』といいます。

復元された海鼠壁と黒塗りの屋敷門は、高家の格式を表しているそうです。

 

 

 内部

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家1軒分くらいのスペース。

公園と言っても子どもたちがキャッキャと遊ぶ公園とは違い、

一連の事件の資料展のようになっています。

 

 

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内壁には、赤穂事件~討ち入りまでの資料がズラリと並んでいました。

 

 

 吉良上野介義央公坐像

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門をくぐると1番に目につくのが、吉良上野介像。

吉良家の菩提寺、愛知県の華蔵寺に安置されている像がモデルになっています。

(1691年 吉良上野介が50歳の頃、自ら造らせた木像。)

私が観たドラマでは、森繁久彌さんが演じていました。

その演技はとても憎々しく、圧倒的ヒール感を醸し出していましたが・・・

なんと、穏やかな顔つき!!

とても、パワハラするような人には見えません。

ドラマのイメージでこの像を見たものだから、少し拍子抜けしてしまいました。

 

【元禄15年12月14日(15日 午前4時頃)】

江戸城での刃傷事件に対し、吉良には何の罰も与えられなかったことへの不服、

赤穂藩お取り潰しの撤回運動も思うように行かなかった浅野家家臣らは、

主君の仇討ちとして吉良を打ち取ることを決めます。

そして討ち入りの日(浅野の月命日)。

赤穂浪士四十七士は、吉良上野介の寝込みを襲います。

吉良家家臣も応戦しますが、不意打ちに準備もままならなず。

完全武装の相手に、寝巻き姿では太刀打ちできませんでした。

四十七士は吉良の寝間へ向かうも既に本人の姿はなく、

屋敷中を探したところ台所裏の物置で吉良を発見。

槍で突き吉良を討ち取りました。

ここまで1~2時間のこと。

しかし、この時はまだ「吉良らしき人物を打った」という状況であったのだとか。

吉良の顔を知る者皆無だったため、

吉良方の兵に確認して初めて打ち取った合図を出したのだそうです。

 

ドラマでは見つかってしまった吉良が死を前に、

四十七士の前で舞を披露していましたけどね・・・実際そんな余裕ないですよね。

お互いに。

 

 

 みしるし洗いの井戸

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吉良の首を洗ったとされる井戸。

 

 

吉良家家臣二十士追悼碑

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討ち入りによって犠牲となった吉良家家臣の追悼碑。

この日、屋敷内に100名近くの家臣がいたものの、戦いに参加したのは数十名ほど。

38名の死傷者が出た吉良側に対し、四十七士は2名が軽い怪我を負っただけでした。

 

 

 追慕碑

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松坂稲荷大明神

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吉良上野介を祀った神社。

討ち入り後、地所清めのために別の地から遷宮された兼春稲荷が、

昭和10年に上野稲荷と合祀され、公園開園時にこの地に遷座されました。

お社の横には、兼春稲荷大明神の幟が立っています。

 

 

吉良邸跡周辺

吉良邸見取り図

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吉良邸跡周辺も少し歩いてみます。

吉良邸は、東西733間(134m)、南北34間(63m)、2550坪の広大な屋敷でした。

見取り図を見ると、何LDKですか?というくらい広い屋敷。

現在残る吉良邸跡は、北側の一部のみで1/85程度の敷地です。

この中から、顔も知らない吉良を探し出した執念は凄いと思います。

 

 

 吉良邸正門跡

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吉良邸跡から東に少し歩くと、吉良邸正門跡があります(案内板のみ)。

表門からは、大石内蔵助率いる表門隊が、梯子を使って塀の中へ入りました。



吉良邸裏門跡

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表門からずっと西にすすみ、裏門跡へ。

こちらも案内板のみです。

裏門では、大石主税率いる裏門隊が、門を壊して侵入しました。

 

 

吉良上野介が隠れていた物置?

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吉良が隠れていた物置の場所についての情報が見つけられずにいたのですが、

何かのサイトで「現在郵便局になっています」というコメントがありました。

見取り図と現在の地図を照らし合わせると、この付近なのかなと思われます。

この郵便局は、表門と裏門の中間あたりにあります。

 

 

 前原伊助宅跡

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吉良邸裏門跡の近くには、四十七士のひとり、前原伊助宅跡。

吉良の動向を探るべく吉良邸の近くに移り住み、

カモフラージュのため「米屋五兵衛」という店を開業しました。

 

 

 飯澄稲荷

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吉良邸跡をまっすぐ歩いた場所に鎮座する稲荷神社。

案内等はありませんが、吉良家の屋敷神だったとのことです。

 

* * *

 

本懐を遂げた四十七士は吉良の首を持ち、

主君浅野内匠頭が眠る泉岳寺へ向かいます。

討ち入りの日ということで、多くの人が吉良邸を訪れていました。

私も含めその訪問者も四十七士と同様、泉岳寺へ向かうのでしょう。

 

毎年12月14日、

吉良家家臣と四十七士を供養する「吉良祭」「義士祭」が開催されるそうですが、

今回はコロナの影響で中止でした。

帰り際、僧侶と礼服をまとった数名の方を見かけたので、

ひっそりと法要が行われたのかもしれません。

 

 

 

 

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【吉良邸跡】
所在地:東京都墨田区両国3-13-9
アクセス:JR「両国駅」より徒歩5分
駐車場:無
公式サイト:https://www.1214.tokyo/
(※2021年12月14日時点の情報です。)

討入りそば/元禄二八蕎麦 玉屋(東京都墨田区) ~忠臣蔵ゆかりの地をめぐる旅 3/7~

【2021/12/14 ぶら旅コース】
皇居東御苑新正堂・浅野内匠頭終焉之地元禄二八蕎麦 玉屋吉良邸跡大川屋泉岳寺大石良雄外十六人忠烈の跡

 

元禄二八蕎麦 玉屋

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新橋から両国へ移動しました。

忠臣蔵の山場である、吉良邸討ち入りに向かいます。

その前に、玉屋というお蕎麦屋さんで腹ごしらえ。

四十七士も討ち入り前夜に蕎麦を食べた、という話があるようです。

 

 

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吉良邸から歩いて数分程度の場所にあるこのお店。

豊富なメニューの中には、やっぱりありました。

義士御前・討入りそば・討入り定食など、忠臣蔵関連のネーミング。

このお店もなかなかユニークで、

他にも隅田川の花火や相撲など、墨田区の名所に因んだメニューが、

期間限定で登場するそうです。

忠臣蔵は10月~3月。

 

 

討ち入りそば(1020円)

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私は討入りそばを注文しました。

「え!?がんもどき?」

油揚げかと思いきや、がんもどきがドンッと乗っていました。

他に、お肉・ほうれん草・わかめ・小柱・揚げ玉・白菜・大根おろし・・・

とにかく具沢山。

がんもどき → 陣太鼓

大根おろし → 雪

わかめ → 夜

をイメージしているそうです。

あぁ、なるほどね!!

 

 

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若干細めのお蕎麦に、濃いお汁。

がんもどきにも味が染みていて、おいしかったです。

「お蕎麦だけで足りるかしら・・・」と心配でしたが、

これだけの具が入っているので、しっかりとお腹いっぱいになりました。

ずっと雨の中を歩いていたので、温かいお蕎麦で体もホカホカ。

満足したところで、これから吉良邸へ向かいます。

 

 

 

 

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【元禄二八そば 玉屋】
所在地:東京都墨田区両国3-21-16
アクセス:JR両国駅より徒歩2分
営業時間:11:00~15:30、17:00~20:30
定休日:木曜日
駐車場:有(2台)
公式サイト:https://g029400.gorp.jp/
(※2021年12月14日時点の情報です。)

切腹最中/新正堂・浅野内匠頭終焉之地(東京都港区) ~忠臣蔵ゆかりの地をめぐる旅 2/7~

【2021/12/14 ぶら旅コース】
皇居東御苑新正堂・浅野内匠頭終焉之地元禄二八蕎麦 玉屋吉良邸跡大川屋泉岳寺大石良雄外十六人忠烈の跡

 

新正堂

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皇居から新橋に移動しました。

新橋駅から徒歩5分、新正堂という和菓子屋さんへ。

このお店が建つ場所は、

浅野内匠頭が預けられた陸奥国一関藩の藩主田村右京太夫上屋敷の跡地です。

田村家の座敷牢に収容された浅野は、数時間後、その庭先で切腹します。

 

【元禄14年3月14日 午後4時頃】

浅野が田村家に到着。

田村家には浅野を収容するための座敷牢が用意されており、

その部屋はすべて釘付けにされ、さらに周りを板で覆われていました。

 

【元禄14年3月14日 午後6時頃】

幕府の大目付から切腹と浅野家お取り潰しの宣告を受け、

浅野はそのまま田村家の庭先で切腹

 

即日切腹という裁定はかなり異例なことであり、

殿中での刃傷沙汰、さらに重要な儀式が台無しになってしまったことに対する、

将軍綱吉の怒りの表れともいわれています。

庭先に屏風を立て畳を敷き、急遽取り繕った場所で行われました。

これは、大名の浅野にとっては屈辱的な作法。

遺書を残すことすら許されなかったそうです。

即日切腹は田村家にとっても想定外のことで、

厳重に封鎖された座敷牢も長期収容を見込んでのことだったそうです。

切腹後、浅野の遺体は浅野家家臣によって泉岳寺に埋葬されました。

 

 

切腹最中10個入り(2689円)

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そんなおぞましい歴史が残る地に店を構える新正堂さんですが、

それをうまく取り入れた和菓子は大ヒットしている模様です。

名物、切腹最中。

ミスをやらかしてしまったサラリーマンがお詫びの手土産に持っていく・・・

という話をよく聞きますよね。笑

 

切腹最中以外にも羊羹やどら焼きなどなど、忠臣蔵シリーズが充実しています。

48本のミニ羊羹セットは、四十七士ひとりひとりの絵が描かれており、

とてもきれいで豪華でした。

 

 

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私もお土産に買ってみました。

友人にも配りたかったので、10個入りです。

 

 

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蓋がしまらないほど餡子がどっさり。

キラキラしていて、見た目も美しいです。

 

 

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一口嚙んでみると、中から求肥が出てきました。

餡子の甘味とモチモチ感・・・これは、おいしい!!!

私は餡子があまり得意ではないのですが、気付いたら2個も食べていました。

友人からも「すごくおいしかった」と言ってもらえてよかったです。

その友人は忠臣蔵をあまり知らなかったようで、

切腹」の文字にビビってましたけどね・・・笑

土砂降りの中、行った甲斐がありました。

 

 

浅野内匠頭終焉之地

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新正堂から50mほど離れた日比谷通り沿いに、

浅野内匠頭終焉之地の石碑があります。

もともと田村家の屋敷内に追悼碑があったのですが、撤去されたとのこと。

現在の石碑は、昭和15年に町内会の有志によって建てられました。

 

* * *

 

喧嘩両成敗という制度がありながらも、

即日切腹&改易の処罰を受けた浅野内匠頭に対し、吉良上野介はお咎めなし。

これに納得の行かない浅野家家臣たちは、吉良邸への討ち入りを企てるのでした。

 

 

 

 

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【新正堂】
所在地:東京都港区新橋4-27-2
アクセス:JR「新橋駅」より徒歩6分
営業時間:9:00~19:00(平日)、9:00~17:00(土)
定休日:日・祝(8月は土・日・祝)
駐車場:無
公式サイト:https://www.shinshodoh.co.jp/

浅野内匠頭終焉之地】
所在地:東京都港区新橋4-31
アクセス:JR「新橋駅」より徒歩8分
駐車場:無
(※2021年12月14日時点の情報です。)

松之大廊下跡・平川門/皇居東御苑(東京都千代田区) ~忠臣蔵ゆかりの地をめぐる旅 1/7~

【2021/12/14 ぶら旅コース】
皇居東御苑新正堂・浅野内匠頭終焉之地元禄二八蕎麦 玉屋吉良邸跡大川屋泉岳寺大石良雄外十六人忠烈の跡

 

忠臣蔵

去年の12月14日、

冬の風物詩『忠臣蔵』ゆかりの地をめぐって来ました。

忠臣蔵を巡るなら12月かな」と思うもなかなかタイミングが合わず、

時期にこだわってしまったばかりに計画から数年の時が経ってしまいました・・。

今年も予定していた日がことごとく潰れ、ふっと空いた14日。

ついに!やっと!何年か越しの忠臣蔵巡りに行けることになりました。

しかも、討ち入りの日に行けるとは!!!

 

* * *

 

忠臣蔵とは、江戸時代の『赤穂事件』を基にした演目で、

浄瑠璃・歌舞伎・演劇・映画・ドラマなど数多くの作品を残します。

赤穂藩浅野内匠頭高家旗本吉良上野介に斬りかかるという事件を起こし、

浅野は即日切腹、浅野家お取り潰しの刑に処されました。

喧嘩両成敗の制度があった中、吉良に対してはお咎めなし。

それを不服とした大石内蔵助をはじめとする浅野家家臣たちが吉良家に討ち入り、

仇討ちをするというお話です。

 

* * *

 

東京都内に点在する忠臣蔵スポット。

細かい所を含めると、それはそれは多く存在します。

さすがにすべて回ることはできないので、

大まかなストーリーがたどれるコースを作ってみました。

赤穂事件~大石内蔵助切腹までの舞台を時系列で進んで行きます。

雪のイメージの忠臣蔵ですが、旅当日はけっこう強めな雨。

びしょびしょになりながら都内を行ったり来たりで、

とにかく移動が大変な旅となりました。。

 

 

皇居東御苑

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今回の旅は、皇居(江戸城)からのスタートです。

 

 

 大手門

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皇居東御苑

江戸城の本丸・二の丸・三の丸にあたる部分が庭園になっており、

無料で一般開放されています。

入口がいくつかありそれぞれ最寄り駅があるのですが、

私は東京駅から向かったので、江戸城の正門にあたる大手門から入りました。

入口では3名の警備員に囲まれ、手荷物検査が行われます。

さらに検温、そして手を消毒している姿を見守られ、

OKが出るとやっと中に入れてもらえました。

 

 

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大手門の前にそびえ立つビル群。

 

 

 皇居東御苑

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苑内はかなりの広さがあり、江戸城の名残など見所もたくさん。

しかし、今回は時間がないので、目的地だけササッとめぐります。

 

 

松之大廊下跡

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大手門を入って西側にある、松之大廊下跡。

忠臣蔵の序章、ことの発端となる刃傷事件が起こった現場です。

ここで浅野内匠頭吉良上野介に斬りかかります。

 

【元禄14年3月14日 午前10時~11時頃】

この日江戸城では、朝廷からの使者をもてなす儀式が行われる予定でした。

勅使の接待役を浅野内匠頭典礼の指導役を吉良上野介が務めていましたが、

浅野は突如、吉良に向けて刀を振るいます。

「この間の遺恨、覚えたるか」とは浅野の有名なセリフ。

浅野がこの行動を起こしてしまった真意については不明だそうですが、

私が観たドラマでは吉良からのパワハラによるもののように描かれていました。

ついカッとなって・・・」といった感じでしょうか?

 

 

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現在は石碑と案内板が置いてあるのみ。

 

 

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両国にある江戸東京博物館では、松之大廊下の模型を見ることができます。

西へ19m、北へ31m、幅5m、畳敷き、江戸城で2番目に長い廊下だそうです。

 

 

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襖戸の絵柄からこの『松の廊下』と名付けられました。

 

 

 平川門

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松之大廊下跡から苑内を半周ほど回り、

江戸城の裏門にあたる平川門から城外に出ます。

 

 

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【元禄14年3月14日 午後3時頃】

事件から4~5時間後。

浅野は取り調べを受けた後、

幕府の裁定を待つため陸奥国一関藩主田村右京太夫の屋敷に預けられます。

浅野を乗せた籠は、平川門から出されました。

平川門は普段通用門として使われていましたが、別名「不浄門」とも呼ばれ、

城内で死人や罪人が出るとこの門から城外へ出すのだそうです。

この時はまだ裁きが下る前なのに、浅野は既に罪人扱いされているんですね・・。

 

* * *

 

駆け足状態で江戸城を回りました。

石垣や天守閣模型の展示など気になるものもあったのですが、

ただただ松之廊下跡と平川門だけを見て出てしまいました。

皇居のお堀を越えるのも初めての体験だったので、

もっとゆっくり見たかったのが本当のところでしたけどね、、とにかく時間が!

次回は江戸城をメインに、じっくりと見学したいと思います。

 

 

 

 

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皇居東御苑
所在地:東京都千代田千代田1-1
アクセス:JR「東京駅」より徒歩7分
開園時間:9:00~18:00(季節により変わります)
休園日:月・金曜日、12月28日~1月3日
駐車場:無
公式サイト:https://www.kunaicho.go.jp/event/higashigyoen/higashigyoen.html
(※2021年12月14日時点の情報です。)

清水観音堂(東京都台東区) ~上野公園の寺社をめぐる旅 9/9~

【2020/11/07 ぶら旅コース】
寛永寺開山堂(両大師)/輪王寺 上野東照宮東照宮第一売店上野大仏花園稲荷神社五條天神社不忍池辯天堂水観音堂
【コースMAP:鶯谷駅~上野駅(※実際の徒歩ルートと異なることがあります)】

 清水観音堂

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上野公園の寺社をめぐる旅、いよいよ最後のお寺になりました。

ラストを飾るのは、清水観音堂です。

 

以前も江戸三十三観音で記事を書きましたが、改めてご紹介します。
www.mi-cha34.com

 

 

 外観

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水観音堂は、不忍池辯天堂の正面に鎮座しています。

 

寛永寺は、延暦寺や琵琶湖などを模して建てられていましたが、

こちらもとあるお寺がモデルとなっています。 

名前からピンと来る通り、京都の清水寺です。

 

 

 本堂

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【御本尊】
千手観世音菩薩(せんじゅかんぜおんぼさつ)

【御由緒】
水観音堂は、寛永8年(1631年)に天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正(1536~1643年)によって建立されました。
天海大僧正寛永2年(1625年)に、二代将軍徳川秀忠公から寄進された上野の山に、平安京比叡山の関係にならって「東叡山寛永寺」を開きました。これは、比叡山京都御所の鬼門(艮=東北)を守るという思想をそのまま江戸に導入することを意味し、江戸城の鬼門の守りを意図したのです。そして比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と建立しましたが、清水観音堂は京都の清水寺(きよみずでら)を見立てたお堂です。
水観音堂は、京都の清水寺の義乗院春海上人から、同寺安置の千手観世音菩薩天海大僧正に奉納されたことにちなみ、清水寺と同じ舞台作りで、初めは上野公園内の「擂鉢(すりばち)山」に建てられました。しかし元禄初期、今の噴水広場の地に、寛永寺総本堂の根本中堂建設が決まると、その工事に伴って元禄7年(1694年)9月に現在地に移築されました。上野の山に現存する、創建年時の明確な最古の建造物です。
平成2年12月から文化財保存修理が行われ、平成8年(1996年)10月に竣工、元禄移築時の面影を再現するに至る、国指定重要文化財です。
(出典:公式サイト

堂内(撮影禁止)に掛かる上野戦争を描いた絵馬には、

当時使われた砲弾も一緒に見ることができます。

 

 

 清水の舞台

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清水の舞台も設置されています。

京都の清水寺は、中学校の修学旅行で行ったきりですかね・・・

本家に比べると、かなりミニチュアです。

 

 

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本家は12mの高さがあるそうですが、こちらは手前の石灯籠より低いです。

「清水の舞台から飛び降りる」という言葉がありますが、

東京の舞台ならそこまでの覚悟はいらないかもしれません。。

 

 

 月の松

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舞台からは、クルッと丸まった松の木が鑑賞できます。

 

 

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外から見た様子。

 

 

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この松は『月の松』と呼ばれ、

江戸時代の浮世絵師歌川広重の『名所江戸百景』において、

『上野清水堂不忍ノ池』『上野山内月のまつ』として描かれた松を、

平成24年12月に復元したものです。

(上の看板は、『上野清水堂不忍ノ池』)

 

 

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月の中から、不忍池辯天堂が見えました。

 

 

 擂鉢山

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もともと清水観音堂があったとされる擂鉢山も、上野公園内に残っています。

弥生式土器や埴輪の破片などが出土したことから、

古墳だったのではないかと考えられているそうです。

 

 

御朱印

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上野公園内の寺社、最後の御朱印です。

 

 

上野戦争

 彰義隊の墓

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15代将軍徳川慶喜の一橋藩主時代の側近家来であった小川興郷らは、慶応4年(1868年)、大政奉還をして上野寛永寺に蟄居した慶喜の助命嘆願のために同志をつのった。そこには徳川政権を支持する各藩士をはじめ、新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々が集まり、「彰義隊」と名乗り、やがて上野の山を拠点として新政府軍と対峙した。旧暦5月15日の上野戦争は、武力に勝る新政府軍が半日で彰義隊を壊滅させた。
生き残った小川ら隊士は、明治7年(1874年)にようやく新政府の許可を得て、激戦地であり隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦死の墓を建立した。なお、遺骨の一部は南千住円通寺内に合葬されている。以後120年余りに渡り、小川一族によって墓所が守られてきた。現在、歴史的記念碑としてその管理は東京都に移されている。
(出典:案内板)

今回のぶら旅の中で、ちょいちょい出てきたワード『上野戦争

上野戦争とは戊辰戦争の中の戦いのひとつで、

彰義隊旧幕府軍と、薩摩藩長州藩を中心とした新政府軍の戦いです。

西郷像の近くには、彰義隊の墓が建っています。

西郷像がある辺りは、当時、薩摩軍が戦った場所だと何かで聞いたことがあります。

 

 

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西郷さんにさよならをして、今回のぶら旅はおしまいです。

 

 

旅の終わりに・・・

【ぶら旅メモ】
交通費:1300円
参拝費:4650円
飲食代:490円
合計:6440円
歩数:16800歩

上野公園内の寺社を巡りました。

園内のみと言っても、かなりのボリュームだと思います。

御朱印はいただいていないものもあるので、

ここでご紹介した御朱印+2~3枚でコンプリートと言ったところでしょうか。

以前訪れた時は、ほとんどの寺社で直書きしてくださったのですが、

今回はほぼ書置きタイプになっていました。

そして、300円だった初穂料も500円に!!

時間とお財布に余裕がある時におすすめしたいスポットです。

 

 

 

 

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【清水観音堂】
所在地:東京都台東区上野公園1-29
アクセス:JR「上野駅」より徒歩4分
御朱印:有
オリジナル御朱印帳:有
駐車場:無
公式サイト:http://kiyomizu.kaneiji.jp/
(※2020年11月7日付けの情報です。)