2020年の書きこぼし旅 その2
今回は去年の10月に行った、市川国府台めぐりについて書こうと思います。
毎年恒例としている『誕生日参拝』で、産土神社をお参りしました。
私の産土神社である國府神社は以前も記事にしているので割愛しますが、
他にも国府台地区の寺社などを巡っているのでそちらをご紹介したいと思います。
(國府神社の様子はこちら↓から。)
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里見公園
国府台駅にほど近い國府神社を参拝後、矢切駅方面へひたすら歩き里見公園へ。
国府台城跡を見に行きました。
『里見公園』という名は、国府台城城主であった里見氏が由来となっています。
とても大きなこの公園は、桜の名所として有名です。
桜以外にも四季折々の花が咲き、この日はバラとナデシコが満開。
公園中に甘い香りが漂っていました。
散歩はもちろん、夏はBBQも楽しめます。
そして何と言っても、歴史の詰まった公園でもありますね。
かつてこの場所には国府台城が建っており、現在も城跡やそれに関する史跡、
古墳などが数多く残されています。
【
国府台城】
「鎌倉大草紙」によれば、文明10年(1478年)に扇谷上杉氏の家宰
太田道灌が「
下総国国府台」に陣取り、仮の陣城をかまえたとあり、これが
国府台城のはじまりであるとする説がある。道灌は武蔵にいた千葉自胤と戦うためにここに陣取り、境根原(
柏市)に出陣し、自胤を破っている。
これより以前の康正2年(1456年)、千葉自胤は兄の実胤とともに「市川城」に立てこもり
足利成氏方に抵抗していたが、簗田出羽守らにより城を落とされ、武蔵石浜(
台東区)に逃れていた。この「市川城」と
太田道灌の仮の陣城との関係が注目されるが、同じものなのかは不明である。
国府台は標高20~25メートルの
下総台地の西のはしで、江戸川に並行して南へ張り出した大きな舌状の丘陵であり、現在の里見公園の中に土塁状の城郭遺構が現存している。そして公園の北に向かっても城郭の遺構らしきものが確認される。
公園内の遺構は破壊が激しく、築城の時期を想定することは難しいが、
太田道灌の時代よりは後の時代に属する、とする推測もある。
この地は、その後天文と永禄の二度にわたり、小田原の
戦国大名北条氏と
安房の里見氏らにより行われた合戦、いわゆる
国府台合戦の舞台となっている。
天文7年(1538年)の合戦は、
北条氏綱と
小弓公方足利義明・里見義堯らが戦ったもので、小弓(
千葉市)に拠を定めた義明と北条家が担ぐ本家筋の
古河公方家との戦いである。これに対して永禄7年(1564年)の戦いは、着々と東国に覇権を確立せんとしていた
北条氏康と、これに抵抗する里見義堯・義弘らの戦いであった(前年の永禄6年にも合戦があったとする説もある。)
永禄の合戦の結果、北条軍は圧勝し、里見方は盟友である正木氏の一族など多くの戦死者を出し
安房に敗走する。現在の
国府台城跡は、この合戦のなかで激突する両軍の争奪の場となり、戦後、北条氏の手により規模が拡大強化され、初期のものから戦国期の城郭に進化した、とする説もある。
現在の公園内には、江戸時代になって作られた里見軍の慰霊のための供養塔が建てられている。
この地はその後、里見八景園という遊園地の敷地となり、その後は陸軍軍用地となり、
終戦を迎えている。
(出典:案内板)
公園に入るとすぐ、国府台城跡の碑が見えます。
近くには案内板。
この地は、北条氏と里見氏が2度にわたり戦った国府台合戦の戦地だったようです。
国府台城は「鴻之台城」「市川(河)城」の別名を持ちますが、
案内にもあるように市川城は別にあったのではないかという説があり、
現在の真間山弘法寺付近と考えられているそうです。
(弘法寺の様子はこちら↓から。)
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公園として整備されてはいますが、
園内を歩いていると石垣や土塁らしき地形を見ることができます。
こんな標識を発見しました。
国府台城は市川市で一番高い場所にあったんですね。
すぐ横を流れる江戸川の向こう側は東京都です。
展望台からは東京の街並み、スカイツリーも見えました。
近くには矢切の渡しがあり、寅さんでおなじみの柴又と繋がっています。
とても良い眺めですが・・・
国府台城は最終的に、徳川家康によって廃城させられてしまいます。
その理由は「江戸を見渡せるから」と言われているそうです。
■ 里見広次並びに里見軍将士亡霊の碑&夜泣き石
先ほどの石垣を登ると、小さな石碑と大きな石がありました。
里見広次並びに里見軍将士亡霊の碑
里見諸士群亡塚(左)、里見諸将霊墓(中)、里見広次公廟(右側)
北条軍に敗れた里見軍の戦死者5千名の慰霊碑です。
この慰霊碑(左・中)が建てられたのは文政12年(1829年)。
なんと、北条軍に敗れてから265年も後のことだそうです。
広次の霊廟は後に(年代不詳)、石井辰五郎という人物によって建てられています。
夜泣き石
慰霊碑の近くには、大きな石。
なんとなく囲われていることから、ただの石ではなさそうです。
この石は『夜泣き石』と呼ばれ、とある伝説が残されていました。
「広次の末娘が父の霊を弔うため、安房の国から国府台の戦場へたどり着きました。
まだ12、3歳の姫は戦場の凄惨な情景を目にし恐怖と悲しみのあまり、
傍らにあった石にもたれ泣き続け、ついに息絶えてしまいます。
それからというもの、毎夜その石から悲しい泣き声が聞こえるようになりました。
里人はこの石を『夜泣き石』と呼ぶようになりましたが、
そこを通りかかったひとりの武士が哀れな姫の供養をしたところ、
泣き声が聞こえなくなったと言います。」
(出典:案内板から抜粋)
なんとも悲しいお話でしたが・・・
案内板には「この伝説はただの伝説でしかない」とも記されていました。
広次が戦死したのは15歳のこと。
「12、3歳の娘がいるのはおかしい」ということなんですね。
この石が広次の慰霊碑の近くにあったことから、このような伝説が生まれたようです。
その他の史跡
■ 明戸古墳石棺
太田道灌が陣を築くため盛土を取り除いた際に発見されたという明戸古墳。
石棺が2基並んでいました。
古墳時代後期にこの辺りで勢力を振るっていた豪族の墓であろうとのことです。
大きさは150~160㎝くらいの人でギリギリといった感じでしょうか。
■ 羅漢の井
弘法大師が発見したという伝説が残る、羅漢の井。
市川市一の高台ですから、井戸と言っても湧水のようです。
国府台城の飲料水としても使われていたといいます。
(現在は飲めません。)
スタイリッシュに整備された井戸ですが、昔はこのような姿だったようです。
(羅漢の井は公園の外側にあります)
■ 紫烟草舎
詩人 北原白秋が1年間過ごしたとされる家屋。
この家屋はもともと小岩にあり、解体後この地に移築したものだそうです。
中に入ることはできませんが、白秋が使用した机などが展示されているとのことで、
もしかすると、特別に公開する日があるのかもしれません。
裏手には、白秋の歌碑がありました。
「華やかに さびしさ秋や 千町田の ほなみがすゑを 群雀立つ」
御城印(2021/07/23追記)
最後に国府台城の御城印をご紹介したいところでしたが、
御城印があることを知らず未入手です。
次回の産土神社参拝時にでもいただいてくる予定なので、また追記します。
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御城印を入手してきたので、追記します。
国府台城の御城印についての詳細はこちら↓↓↓
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【
国府台城跡/里見公園】
所在地:千葉県
市川市国府台3-9
アクセス:JR「
市川駅」京成「
国府台駅」よりバス「
国府台病院」下車徒歩5分
御城印:有
駐車場:有
(※2020年10月24日付けの情報です。)