國府神社 → 国府台城跡/里見公園 → 国府台天満宮 → 飛地天満宮 → 亀井院 → 話飲茶屋 つぎはし
【コースMAP:国府台駅~国府台駅(※実際のルートと異なることがあります。)】
亀井院
■ 門
国府台駅に戻る途中、亀井院に立ち寄りました。
里見公園に北原白秋が暮らしていたという『紫烟草舎』が建っていましたね。
そこの案内板に白秋が紫烟草舎の前に暮らしていたお寺として紹介されていたので、
覗いてみることにしたのです。
■ 本堂
【宗派】
日蓮宗
【御由緒】
万葉集の歌人高橋虫麻呂は、手児奈が真間の井で水を汲んだという伝承を聞いて、
『勝鹿の真間の井を見れば立ち平し 水汲ましけむ手児奈し思ほゆ』
(葛飾の真間の井を見ると、いつもいつもここに立って水をくんだという手児奈が偲ばれる。)の歌を残した。この真間の井は亀井院にある井戸がそれであると伝えられている。
亀井院は寛永12年(1635年)真間山弘法寺の11世日立上人が弘法寺貫主貫主の隠居寺として建立したもので、当初『瓶井坊』と称された。瓶井とは湧水がちょうど瓶に水を湛えたように満ちていたところから付けられたものである。
その後、元禄9年(1696年)の春、鈴木長頼は亡父長常を瓶井坊に葬り、その菩提を弔うため坊を修復したのである。以来瓶井坊は鈴木(れいぼく)院とよばれるようになった。
長頼は当時弘法寺の17世日貞上人と図り万葉集に歌われた『真間の井』、『真間の娘子(手児奈)の墓』、『継橋』の所在を後世に継承するため、それぞれの地に銘文を刻んだ碑を建てた。本寺の入口にあるのがその時の真間之位の碑である。
長頼没後、鈴木家は衰え鈴木院の名称も、また亀井坊と改められた。これは井のそばに霊亀が現れたからといわれている。
北原白秋が亀井院で生活したのは、大正5年5月中旬からひと月半にわたってのことである。それは彼の生涯で最も生活の困窮した時代であった。
『米櫃に米の幽かに音するは 白玉のごと果敢なかりけり』
この歌は当時の生活を如実に表現している。こうした中にあって真間の井に関しては次の一首を残している。
『蕗の葉に亀井の水のあふるれば 蛙啼くなりかつしかの真間』
その後、江戸川を渡った小岩の川べりに建つ、離れを借りて暮したが、これを紫烟草舎とよんでいる。
(出典:境内案内板)
白秋が暮らしてい頃はこのような姿をしていたようです。
今では面影すらありませんね。。
境内には、白秋が真間を歌った歌碑があります。
「蛍飛ぶ真間の小川の夕闇に蝦すくふ子か水音立つるは」
■ 真間の井
白秋が暮らした地を覗きに来たのですが、ここにはもうひとつの見所がありました。
『真間の井』
以前ご紹介した、万葉集にも歌われる美女、手児奈伝説にまつわる井戸でした。
手児奈が水を汲んだという伝えがあるそうです。
亀井院は手児奈霊神堂の向いにあるのですが、
前回訪れた時にはまったく気づきませんでした。。。
(手児奈伝説についてはコチラ↓)
www.mi-cha34.com
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ちなみに亀井院は、かつて弘法寺の子院だったとのことです。
真間の井は現存するとのことで、見に行ってみることに。
御堂の脇の扉をくぐり、小さな中庭へ向かいます。
庭には大きな池がありました。
あ!カメだ!!
石のカメをお母さんと間違えているのでしょうか?
背中に上がろうとしています。
井戸には霊亀が現れるとの言われがあるそうなので、
このカメはもしかすると・・・もしかするかもしれません。笑
池を横目に奥へ進んで行くと、井戸が現れました。
これが手児奈が使っていたと言われている、真間の井です。
バケツが置いてあり今にも誰かが水を汲みに来そうな雰囲気ですが、
現在は使用されていません。
手児奈の時代は、きれいな湧水を汲みにたくさんの人が集まっていたと言います。
当時はこの辺りまで海が入り込んでいたため、
ほとんどの井戸の水は塩気でとても飲めたものではなく、
生活用水として使えた井戸は真間の井ただひとつだったそうです。
井戸のそばには真間の井が歌われた、万葉歌碑が置かれています。
「勝鹿の真間の井を見れば立ち平し 水汲ましけむ手児奈し思ほゆ」
* * *
『北原白秋ゆかりの地』という目的で訪れた亀井院でしたが、
ここで再び手児奈伝説に触れることになるとは思いませんでした。
どちらかというと、手児奈伝説の方が興味が大きいのでラッキーでしたね。
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