【2015/11/12】
石割神社/石割山
【2013/08/16】
雄山神社峰本社/雄山
私史上最標高!!
私が一生をかけて集めようとしている、全国一の宮神社の御朱印。
これまで何社めぐったでしょうか・・・そう多くはありません(汗)
全国に120社以上ある一の宮神社です。
これをコンプリートしようものならかなりの時間とお金がかかるわけで、
なかなか調子よく進められないのが実状です。。。
しかしながら、実際に旅をしたり、旅の計画を立てていると、
必要なのは「時間」と「お金」だけではない、と思わされる時があります。
一の宮神社の一覧を見て、
「ここは行くことができないかも・・・」と、
半ば諦め状態だった神社がありました。
それは、今回ご紹介する『雄山神社』。
なんと、標高3000mを超える山頂に鎮座しているのです。
時間とお金は用意できても、私には山の知識と経験が不足していました。。。
しかし、私はラッキーでした☆
そういえば、近くに登山経験の豊富な人がいるではありませんか。
そう、前回の記事にも登場した『父』です。
立山は何度か登ったことがあるとのことだったので、
父にお願いして一緒に登ってもらうことにしました(母付き)。
ちなみに、父もこれを機に御朱印集めを始めています。
・・・と、少し前置きが長くなりましたが、
今回は、私史上最標高の神社参拝の様子をお届けします。
尚、2013年とかなり昔の旅なので、
写真・記憶が少なすぎるかと思いますが、ご了承ください。。
雄山
2013年8月、富山県へ遠征旅。
標高3003mの山頂に鎮座する、雄山神社峰本社の参拝と御朱印が目的です。
■ 立山黒部アルペンルート(扇沢駅~)
長野県の扇沢駅からアルペンルートをたどり、雄山の登山口『室堂』を目指します。
すぐさま登山開始したいところですが、室堂へ行くまでも結構な長旅で、、、
いくつもの乗り物を乗り継ぎます。
始発に乗るため、前の日から車中泊。
夜は眠るのがもったいないほどの、満天の星空でした。
(夜空の写真を撮ってみましたが、星が写るわけもなく・・・真っ黒!笑)
朝日が昇り明るくなって初めて、山に囲まれていることを知りました。。
■ 関電トンネル電気バス
トンネルの中を進む途中、ダム工事の難所であった破砕帯を通ります。
破砕帯の区間はバスの中からでもわかるよう、案内が出ています。
■ 黒部ダム
黒部ダム駅でバスを降り、夏でもひんやりとした通路を抜け、外に出ます。
黒部ダムでは、放水の様子を見ることができました。
夏の間はほぼほぼ見られるようです。
真上から除くと、水の流れに引き込まれそうでした。
カメラを落とさないかドキドキ・・・。
■ 黒部ケーブルカー
■ 黒部平
乗り物を乗り継ぐにつれて、山がどんどん迫ってきます。
■ 立山ロープウェイ
乗り物はまだまだ続きます。
黒部平からは、ロープウェイで大観峰まで登ります。
高い所が苦手なので景色を楽しむ余裕がありませんでした・・・。
特にロープウェイのようなぶら下がり系の乗り物はガクブルものですね。
■ 立山トンネルトロリーバス
そして、最後にトロリーバスに乗って、室堂に到着。
この時点で、標高2450mです。
■ 室堂
ここから雄山に向けて、登山道を歩きます。
■ 登山道
序盤は石畳や木道など整備された道が続き、比較的なだらか。
山や草花など、景色を楽しみながら進みます。
途中、雪に覆われた道もありました。
■ 一ノ越
標高2700m、『一ノ越』というところまで登ってきました。
ここには山小屋があり、山頂前の最後の休憩場所といったところでしょうか。
私たちもここで一旦休憩です。
■ 山頂へ
登山再開。
一ノ越より先は、今までの道とはまったく違い、一気に険しくなりました。
さっきまで景色を見ながらまったり歩いていたのに・・・急に岩!!
手足をフル活動させ、岩にしがみつきながら登って行きます。
グラグラしている岩も多く、ひとつひとつ安全を確認しなくてはなりません。
振り返れば、この傾斜。
こんな壁みたいなところを登っているかと思うと顔面蒼白でした。
暑さと緊張で変な汗をかきつつ登り進めると、
岩に囲まれた祠のようなものが出てきました。
「神社はもうすぐか・・・?」
こういったものを見ると、少し安心します。
ようやく、山の上に小屋が見えてきました。
「もうすぐ頂上だ!!!」と、一瞬浮かれましたが・・・
山って山頂が見えてからが長いんですよね。
しかし、この辺までくると恐怖や不安よりも楽しさの方が上回っていました。
そしてついに、登頂成功!!!!!
私、がんばりました!!!!
・・・・と、達成感に浸っている場合ではありません。
私の本当の目的は、登山ではなく神社参拝なのです。
すぐさま、雄山神社へ向かいました。
雄山神社 峰本社
■ 鳥居
山を登ってしまえば、神社はすぐそこ。
鳥居の先をもう少し登った場所に、雄山神社峰本社の本殿があります。
登頂成功!と喜んでいましたが、本殿が本当の山頂ですね。
それにしても、よくこんな場所にお社を建てたものです。
本殿を参拝するには、登拝料が必要になります。
大人500円、子ども200円。
(2021年8月31日現在、大人700円、子ども300円)
■ 本殿
伊邪那岐神(いざなぎのかみ)
天手力雄神(あめのたぢからおのかみ)
【御由緒】
今から約1300年前、文武天皇の大宝元年(701年)第12代景行天皇の後裔、越中の国司佐伯宿禰有若卿の嫡男有頼公が、白鷹と黒熊に導かれ立山の玉殿岩窟において「我、濁世の衆生を救はんがため此の山に現はる。或は鷹となり、或は熊となり、汝をここに導きしは、この霊山を開かせんがためなり。」という立山両権現の霊示を受け、文武天皇の勅命により開山されたのが霊峰立山である。その立山を神山と仰ぎ、山麓芦峅寺に立山雄山神(立山大宮)、剣岳の刀尾神(立山若宮)の両権現を奉斎する根本中宮をはじめ壮大なる神社仏閣が建立され、芦峅寺にも社殿が建てられて、年中の諸祭礼を怠りなく奉仕したのである。有頼公自らは出家して慈興と号し、立山座主として芦峅寺に居を定め、立山信仰の弘宣に生涯を捧げられたのである。
以来神仏習合の一大霊場として皇室をはじめ武将名門の崇敬を受け、元明天皇・後醍醐天皇の勅願所となり、また清和天皇の貞観5年・宇多天皇の寛平元年に叙位せられた。
平安期の後白河法皇御撰の『梁塵秘抄』には「験仏の尊きは先づ東の立山」と全国著名の霊場の冒頭に記され、また鎌倉時代の安居院編纂の『神道集』に「越中国一宮」、洞院公賢が著した『拾芥抄』に「雄山神社は新川郡葦峅寺にあり」と銘記されており、広く信仰を集めていたことが窺われる。
鎌倉幕府が文治元年に諸堂を造営、室町幕府足利歴代将軍、越中守護代神保長誠公、佐々成政公等々、殊のほか深く崇敬し保護造営されてきた霊場も、天正13年8月、富山城主佐々成政征討のため越中に軍を進めた豊臣秀吉により芦峅寺が悉く焼き払われ、以前の諸堂を殆ど失うこととなった。このことについては「東は立山ウバダウつるぎの山麓迄、令放火候」と、秀吉が藤三蔵ら5名の近畿大名に送った文書が高野山に残され、『続群書類従』にも「至リ越後界二、立山、剣、祖母堂、廻シ人数ヲ」と載せられている。祖母堂(うばどう)とは芦峅寺のことである。
前田利家公が加賀藩主となり復興造営に保護を加え、再び盛賑を極めたものの、明治維新の廃仏毀釈・神仏半然令により一大改新を加えられたため、布橋灌頂において重要な役割を果たした中宮寺ウバ堂は廃止され、天下三霊橋と誇った布橋も落ち、塔中諸坊も四散し芦峅寺は廃墟と化してしまった。ただ、根本中宮の境内とその講堂が雄山神社中宮祈願殿として残り、明治6年に県社、昭和15年に国幣小社に列せられた。
(出典:雄山神社HP)
本殿が建つ場所は、人が20人もいればぎゅうぎゅうになるほどのスペース。
標高の高い山に小さな祠が祀られているのを映像などでよく見ていたので、
こんなに大きく立派なお社が建っているとは驚きでした。
雨風の影響を直に受けながら崩れもせず建ち続けるなんて、
まさに神業のように思います。
本殿前になんとなく人が集まってきた頃、
いつの間にか宮司さん現れ、御祈祷してくださいました。
定期的に御祈祷の時間があるのだと思いますが、
予期せぬサプライズ御祈祷に、ここまで登ってきたご褒美をもらったようでした。
お社のとなりに、頂上の標柱を発見!!!
これで、本当に登頂成功です!
御朱印
汗と努力の結晶、御朱印です。
鳥居の手前にある社務所でいただけます。
御朱印と一緒に、お札をいただきました。
* * *
雄山神社の参拝を終え、そこで軽食を取り、来た道を戻りました。
帰りは帰りで、最終バスの時間が迫っており、冷や汗ものでした。
無事に帰宅できたことに感謝です。
旅を振り返って・・・
8月の山の日にちなんで、山に鎮座する神社2社をご紹介しました。
こうして振り返ってみると、登山もいいですね。
子どもの頃よく登りましたが、ここ最近また興味が沸いてきています。
来年あたりから登山と神社を絡めた旅も増やせたらいいなと思っているのですが、
まずは登山友達を探すところからですかね。
やっぱり1人じゃ危ないですよね~。
<登山を伴う神社の過去記事 ↓ ↓ ↓>
★ブログランキングに参加しています★