氷川三社と見沼の竜伝説について
【2021/04/03 ぶら旅コース】
<さいたま新都心駅> → 大宮氷川神社 → 氷川だんご → <バス> → 中山神社 → <バス> → <北浦和駅> → <電車> → <東浦和駅> → <バス> → 氷川女体神社 → 国昌寺 → 見沼の龍 → 萬年寺 → 見沼自然公園 → <バス> → <大宮駅>
【コースMAP:大宮氷川神社~見沼自然公園(※車表示の為、実際のルートと異なります。)】
【2021/04/10 ぶら旅コース】
<東川口駅> → 大門神社 → <東川口駅> → <電車> → <東浦和駅> → 厳嶋神社(下山口弁天) → 見沼通船堀・八丁堤 → 喫茶 花あかり → 下山口新田稲荷社・大間木水神社 → 鈴木家住宅 → <東浦和駅>
【コースMAP:大門神社~鈴木家住宅(※車表示の為、実際のルートと異なります。)】
【2021/07/12 追加旅】
常福寺・柴山伏越
萬年寺
■ 山門
見沼の竜『マルコ』に別れを告げ、萬年寺へ向かいました。
前回「竜が役人に新田開発の中止を訴えた」という伝説をご紹介しましたが、
その伝説の舞台のひとつとなっているのがこのお寺です。
■ 本殿
釈迦如来(しゃかにょらい)
【宗派】
曹洞宗
【御由緒】
萬年寺は、見沼を望む台地上に位置する曹洞宗の寺院です。永正6年(1509年)に開山し、天正19年(1591年)に徳川家康から寺領20石を拝領した古刹です。
江戸時代初期、見沼溜井造成に際し、寺域が水没したため伽藍を現在地に移したと伝わります。江戸時代中期には、溜井の干拓及び見沼代用水路の開削事業に際して、工事を担当した井澤弥惣兵衛為永が詰所を当寺に設けたと伝わり、文化14年(1817年)になって、見沼代用水路沿線の通船関係者が、為永ゆかりの当寺に顕彰碑を建立し、事績をしのびました。
なお、見沼周辺には、井澤弥惣兵衛為永と見沼の竜神にまつわる伝説が数多く残っています。
この地、境内には、瘤地蔵、庚申塔、当寺の中興開基となる初鹿野伝右衛門昌久の墓などがあります。幕末から明治にかけては寺小屋が開設され、村の子弟の教育にあたりました。
(出典:境内案内板)
萬年寺は、現在の見沼代用水路建設時に、詰所として利用されていました。
■ 境内
鐘楼。
コブを治してくださるという、瘤地蔵。
馬頭観音。
謎のお堂。
見沼の竜伝説『見沼の龍神灯』
将軍吉宗の命を受けた井澤弥惣兵衛為永は、この辺りの見沼を干拓し、利根川から代わりの水を引く工事をしていました。ある晩のこと、為永は夢を見ました。見沼の主である龍神という美しい娘が現れ、「私の住むところがなくなる、新しい住処を探すまで工事を中止してほしい・・・」といいます。来春の稲の作付けに間に合わせるため工事は1日も休めません。そのうち工事に負傷者や障害が続出し、為永も病に倒れてしまいました。するとまた夢に先ほどの美女が現れ、「おまえの病を治してあげるから、私の頼みも聞いて欲しい・・・」と、毎夜やってきては、夜明けに姿を消します。為永の病気はにわかに良くなりましたが、家来が為永の部屋を覗くと、蛇身の女が為永の体をなめまわしていました。家来の者もそれには気を失い、為永もその話を聞くと肝を冷やしました。
為永は、詰所を萬年寺に移しました。萬年寺でも、棺が門をくぐろうとする途中に舞い上がるというようなことが起こったため、人々は龍神が為永の仕打ちを恨んでの仕業に違いないといいあったといいます。
為永は龍神を慰めるため龍神灯をお供えしました。この龍神灯は萬年寺の大松をあかあかと灯しました。
出典(案内板)
国昌寺と同様、こちらの門でもくぐる棺に不可思議なことが起こったようです。
その門とは、正面の赤い門のことでしょうか???
普通に開かれていて竜の彫り物もないので、別にあったのでしょうか???
■ 井澤弥惣兵衛為永
(写真:見沼自然公園にて撮影したもの)
広大な沼であった見沼は、徳川の命により新田に姿を変えます。
その際、田に水を引くための溜井(見沼井)が作られました。
もっと米を作りたい幕府ですが、これでは農業用水が足りません。
そこで、利根川から水を引きできた用水路が、現在の見沼代用水となります。
用水路建設を担当した幕府の役人、井澤弥惣兵衛為永(写真)。
上記以外にも、竜と為永にまつわる伝説は多く残されているようで、
これが本当ならば竜と幕府の板挟みで散々だったことでしょう。。。
■ 伊奈氏
以前、『伊奈町の伝説』をめぐったことがありました。
伊奈氏屋敷跡周辺にも、龍や蛇のお話が多くあったことを思い出します。
というのも、井澤弥惣兵衛為永の時代から遡ること約100年前。
徳川家康の命で、見沼周辺の治水を行ったのが伊奈氏でした。
溜井も伊奈氏が作ったものです。
伊奈氏も「棲家を奪った」と龍神様に祟られていましたね・・・。
当時は「やたら龍が出てくるな~」なんて思う程度だったのですが、、、
ここへ来て伊奈町の伝説と話が繋がり、
今更ながら伊奈氏の働きをしっかり理解することができました。
(伊奈町の伝説の記事はコチラ↓↓↓)
■ 井澤弥惣兵衛為永顕彰碑
この碑は、見沼代用水を開いた功労者・井澤弥惣兵衛をたたえたものです。
井澤弥惣兵衛為永は、江戸時代の寛文3年(1663年)に紀伊国(和歌山県)溝口村(海南市)に生まれ、土木技術に才能を発揮し紀州藩主5代にわたり仕えました。
その後、8代将軍徳川吉宗に招かれ、幕府勘定方に着任し、享保12年(1727年)から埼玉県に広がる見沼の開発に着手しました。見沼の開発は、利根川の水を下中条条(行田市)から引き入れ、距離60kmkmにおよぶ見沼代用水路を掘り進め周辺に新たな水田を開くという大がかりのものでした。
着手してから半年という短期間で用水路を堀りあげたと伝えられています。なお、弥惣兵衛は見沼代用水の工事のため万年寺(萬年寺)境内に工事事務所を置いていました。また、見沼代用水と芝川を利用して江戸とを結ぶ水運の便をはかり、米をはじめとする物資の輸送を効果的に行えるようにしました。浦和市にある国指定史跡の閘門式運河・見沼通船堀が広く知られています。
この碑のほか利根川から取水口近くに井沢祠、白岡町柴山常福寺には墓石があり、井澤弥惣兵衛為永の功績を現在に伝えています。現在でも見沼で工事を行う際にはこの碑に参拝して工事の安全祈願をするといわれています。
なお、弥惣兵衛は元文3年(1738年)に75歳で没し、江戸麹町(東京都千代田区麹町)の心法寺に葬られています。
(出典:境内案内板)
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