須賀神社
■ 鳥居
蓮田駅を渡り、駅の反対口にある神社にも行ってみました。
須賀神社。
子どもの頃、大晦日の夜に家族で参拝していた神社です。
■ 境内
何度も訪れた神社ですが、昼間に参拝するのは初めてのこと。
境内がこんなに広いとは思いませんでした。
大晦日は参拝客でごった返していますからね。
「こんな神社だったんだ~」と、まるで初めて来たかのような気分でした。
普段は無人の神社ですが、大晦日の夜は、この広場でだるま市が行われます。
毎年、その達磨を買いに行くのが我が家の恒例行事。
1年間お世話になった達磨は、境内でお焚き上げしてもらいます。
だるまが燃える火にあたり、体を温めてから家路へ。
子どもの頃は、こんな大晦日を過ごしていました。
■ 拝殿
素戔嗚尊(すさのおのみこと)
【御由緒】
当社の社名は、祭神である素戔嗚尊が八岐大蛇を斬り、稲田姫命と婚してその宮居を定めた土地に至った時、「吾心清清し(あがこころすがすがし)」と仰せたことにちなむものである。境内は蓮田駅から徒歩5分、国道122号の道沿いという交通至便な場所にあり、初詣などの参拝者も多い。
口碑によれば、当社は元は産土山と呼ばれる地に鎮座していたという。産土山は、当社の南西600メートル、現在の御前橋2丁目の黒須圭家付近にあった高さ2~3メートルの小山で、昭和初期に整理してしまったために今では往時の面影はないが、かつては木々がこんもり茂っていた。当社が産土山から現在の社地に移った時期は不明であるが、『明細帳』に移転の記録がないことから、江戸時代のことであろう。また、産土山の一帯も現在の社地も元名主の田口家の所有地であったということから、当社の創建には田口家が大きく関与していたと推測される。
蓮田村は、江戸初期に上蓮田の二村に分村し、明治7年に再度合併して蓮田村となった。当社は、そのうちの上蓮田の鎮守として祀られてきた神社で、旧社格は村社である。『風土記稿』上蓮田村の項にはどういう理由からか当社の名が漏れているが、本殿の内陣に納められている古い社号額の表面には「須賀神社」と刻まれ、裏面には「天保13年(1842年)壬寅五月吉日 当初願主丈助」の墨書があることから、当時既に現在の社号が使われていたことがわかる。
(出典:境内案内板)
社殿もこんなに小さかったんですね・・・。
私の記憶が子ども目線だったのか、もっと大きなイメージでした。
拝殿前に集まっている方々は、氏子さんのようでした。
お賽銭箱がなくキョロキョロしていたところ、、
「お賽銭は戸の隙間から入れてくださいね~。」と。
なんと、賽銭泥棒がいるらしく、お賽銭箱を中へ隠してしまったそうです。
なんと、罰当たりな・・・。
■ 本殿
本殿は装飾などない、とてもシンプルな造りでした。
■ 境内社
境内社は、社名や祀られてる神様など不明です。
■ 神輿庫
中には2基の御神輿。
■ 石碑
須賀神社を詠んだ石碑。
他にもブランコなどの遊具があり、子どもたちが遊んでいました。
ご近所さんの憩いの場でもあるようですね。
* * *
今年の初詣は、地元の神社2社をめぐりました。
ふらふらと散歩をしながら懐かしい思い出に浸り、
とてもゆったりとした参拝ができました。
今年も良い1年になりますように~☆彡
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