【2021/12/14 ぶら旅コース】
皇居東御苑 → 新正堂・浅野内匠頭終焉之地 → 元禄二八蕎麦 玉屋 → 吉良邸跡 → 大川屋 → 泉岳寺 → 大石良雄外十六人忠烈の跡
高輪ゲートウェイ駅
討ち入り後、四十七士は討ち取った吉良の首を供えるべく、
私もそれを追って、両国から高輪ゲートウェイに移動しました。
真新しい高輪ゲートウェイ駅。
駅名でひと悶着あったという印象しかありませんでしたが、
とても近代的というか、まるで美術館にでも来たような美しい構内に感動しました。
地下鉄の駅もありますが、極力JRで回りたいと思っていたので(地下鉄苦手)、
今回ばかりはこの駅の新設に感謝でした。
街の掲示板には『義士祭』のポスター。
泉岳寺に近づくにつれて人もだんだんと増えて行き、
忠臣蔵のストーリーと共に周囲の雰囲気も盛り上がってきたように感じます。
『四十七義士』と刻まれた石碑が出てきました。
泉岳寺まで、もう少し!!
泉岳寺
■ 中門
泉岳寺に到着しました。
中門を通って、中に入ります。
時間も遅かったので義士祭のイベントは終了してしまったようですが、
境内は屋台が並び、多くの参拝客で賑わっていました。
どしゃぶりだった雨も弱まり、青空が見えるように。
■ 大石内蔵助像
山門の前では、大石内蔵助がお出迎え。
鋭い視線は江戸の方向に向けられているそうです。
■ 山門
かつては三門と言って、総門・中門・山門と3つの門が並んでいたそうです。
現在は中門と山門のみ。
■ 銅彫大蟠龍
山門の下で天井を見上げると、クルリと丸まった龍の姿を見ることができます。
■ 本堂
【御本尊】
釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)
【宗派】
曹洞宗
【御由緒】
泉岳寺は曹洞宗の寺院です。
曹洞宗のご本山は二つあり、一つは道元禅師が開かれた福井県の永平寺、もう一つは横浜鶴見の總持寺です。
道元禅師の主著は仏教の真髄を表した『正法眼蔵』という95巻に亘る書物です。
さて、泉岳寺は慶長17年(1612年)に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を拝請して徳川家康が外桜田(現在の警視庁の近く)に創立した寺院です。
しかしながら寛永18年(1641年)の寛永の大火によって焼失。そして現在の高輪の地に移転してきました。時の将軍家光が高輪泉岳寺の復興がままならない様子を見て、毛利・浅野・朽木・丹波・水谷の五大名に命じ、高輪に移転した泉岳寺はできあがったのです。浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のものです。
一般的には赤穂義士のお墓があることで有名ですが、創建時より七堂伽藍を完備して、諸国の僧侶200名近くが参学する叢林として、また曹洞宗江戸三ヶ寺ならびに三学寮の一つとして名を馳せていました。
その家風は引き継がれており、人数は少ないものの、大学で仏教を学びつつ泉岳寺で修行を勤めるという若い修行僧が、現在もいます。
(出典:公式サイト)
本堂には、大石内蔵助の守り本尊、摩利支天(秘仏)が納められています。
■ 赤穂義士墓所入口
【元禄16年2月4日】
主君の仇討ちを果たした四十七士は、
細川家・水野家・毛利家・松平家の4大名家のお預けとなります。
処分を検討した結果、幕府は彼らに対して切腹を命じます。
四十七士はそれぞれの預け先で切腹。
遺骸は主君と同じく、泉岳寺に埋葬されました。
この門は、浅野家鉄砲州上屋敷(現聖路加病院)の裏門を明治時代に移築したもの。
入口にて、お線香を一束購入しました。
■ 浅野内匠頭の墓
■ 瑤泉院の墓
瑤泉院の墓といえば、西巣鴨の妙行寺にもあったことを思い出しました。
四谷怪談のお岩さんのお墓のすぐ近く。
浅野家の墓と案内板があった記憶ですが・・・
この時はお岩さんメインの旅だったのであまり見ていませんでした。。。
■ 赤穂義士の墓
浅野夫妻の墓を奥に進むと、石の柵で囲われた四十七士の墓があります。
なんと凄い人の数!!
お線香の煙で中の様子が見えません。
参拝客も年配の方から若い方まで、現在も忠臣蔵の人気がうかがえます。
お墓の配置はこのようになっています。
四十七士は、預け先ごとにまとまって並んでいました。
数十分並び、いよいよ中へ。
人の流れについて行く形で、ひとりひとりの墓碑の前にお線香を置いて行きます。
購入したお線香には火が着いていなかったので火はどこかと尋ねると、
係りの方から「置くだけで勝手に燃えます!!」と言われました。
「最近のお線香って勝手に燃えるの?」と不思議に思っていたのですが・・・
既に供えられたお線香の山は、燃え上がり炎が出ている状態。
それを見て「あぁ、そういうことね!」と納得しました。
墓碑の裏には名前と年齢が書かれた立て札がありました。
年齢は20~30代を中心に、下は10代、上は60代。
大石内蔵助・主税親子の墓は、他のものより墓碑が大きく屋根付きと、
ちょっと豪華。
戒名はみな、『刃』の文字で始まり『剱』の文字が入っています。
■ 供養墓
そんな中、他とは異なる墓碑がありました。
『遂道退身信士』の戒名が刻まれています。
寺坂は討ち入り後に姿を消し、四十七士の中で唯一切腹を免れた人物で、
逃亡説・事の顛末を報告するため離脱した説・そもそも参加すらしていない説・・
といろいろ考えられていますが、真相は謎です。
寺坂は天寿を全うし83歳で病死、港区の曹渓寺に埋葬されました。
また、間新六も墓碑は並ぶも埋葬はされていません。
遺体は家族に引き取られたそうです。
■ 48人目の義士
ここでもう1度、墓所の配置図を見直します。
お墓の数を数えてみると、四十七士のはずが48基あることに気づきます。
萱野三平(享年28)。
江戸城で主君が起こした刃傷事件の第一報を赤穂へもたらした人物です。
江戸から赤穂まで17日かかるところを4日で走破したと言われています。
忠義心篤く討ち入りの参加を熱望していましたが、
周囲の猛反対に遭い討ち入り前(浅野の月命日)に自刃してしまいました。
明和4年、四十七と共に供養墓が建てられています。
■ 墓所からの眺め
人の多さから流れ作業的にお線香を供え、墓所を出ました。
煙で目が痛いし、むせて咳込むしで、終始慌ただしかったです。
ただ、墓所に差し掛かった頃に雨がやんでくれたのは助かりました。
正直、傘を差しながらではきつかったと思います。
墓所を出たところで、近くにいたおじさんに「あっち見てみな」と言われました。
指さした方に目を向けると、空に虹が出ていました。
その虹を見て「今日は特別な日なんだな~」と、なんとなく思いました。
泉岳寺で感じる忠臣蔵
■ 首洗いの井戸
吉良の首を洗ったと伝わる、首洗いの井戸。
この雰囲気とひんやりとした空気に、少しゾッとしました。
■ 血染めの梅・血染めの石、瑤池梅
浅野内匠頭が田村邸の庭先で切腹した際、その血がかかったとされる梅と石。
その先には、義士の墓守をした堀部妙海法尼が瑤泉院から賜った梅もあります。
■ 主税梅
赤穂義士記念館・義士木像館
■ 赤穂義士記念館
最後に、赤穂義士記念館を見学しました。
浅野内匠頭の陣笠、討ち入りの際に使用したという陣太鼓、書状、掛け軸などを
見ることができました。
■ 義士木像館
赤穂義士記念館の入場券で入れる、義士木像館にも行ってみました。
明治2年までに作成された四十七士の木像が並んでいます。
木像館には人がおらず、1人色あせた古い像に囲まれ、怖かったです・・・。
御朱印
御朱印は直書きでした。
時間がかかるとのことで、御朱印帳を寺務所に預け境内を回りました。
* * *
これにて『忠臣蔵ゆかりの地をめぐる旅』終了!!!のはずでしたが・・・
泉岳寺から駅へ向かおうとしたところ、
おばあちゃんに呼び止められチラシをもらいました。
そこには『切腹の地開場』の文字と地図が。
「切腹の地は調べてなかった~!!!」
これに関しては調べるにも至らない程、思いつきもしなかった場所です。
これは教えてもらえてラッキー☆
さっそく地図を頼りに、切腹地へ向かいました。
『忠臣蔵ゆかりの地をめぐる旅』延長戦です!
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【萬松山 泉岳寺】
所在地:東京都港区高輪2-11-1
アクセス:JR「高輪ゲートウェイ駅」より徒歩7分、都営浅草線「泉岳寺駅」より徒歩3分
御朱印:有
オリジナル御朱印帳:有
駐車場:無
公式サイト:https://sengakuji.or.jp/
【赤穂義士記念館・義士木像館】
入館料:大人500円、中高生400円、小人250円(記念館・木像館共通券)
開館時間:9:00~16:00
(※2021年12月14日時点の情報です。)