関東ぶらりん旅

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赤穂義士墓所/泉岳寺(東京都港区) ~忠臣蔵ゆかりの地をめぐる旅 6/7~

【2021/12/14 ぶら旅コース】
皇居東御苑新正堂・浅野内匠頭終焉之地元禄二八蕎麦 玉屋吉良邸跡大川屋泉岳寺大石良雄外十六人忠烈の跡

 

高輪ゲートウェイ

討ち入り後、四十七士は討ち取った吉良の首を供えるべく、

主君浅野内匠頭が眠る泉岳寺へ向かいます。

私もそれを追って、両国から高輪ゲートウェイに移動しました。

真新しい高輪ゲートウェイ駅。

駅名でひと悶着あったという印象しかありませんでしたが、

とても近代的というか、まるで美術館にでも来たような美しい構内に感動しました。

JRでは高輪ゲートウェイ駅が泉岳寺の最寄り駅になります。

地下鉄の駅もありますが、極力JRで回りたいと思っていたので(地下鉄苦手)、

今回ばかりはこの駅の新設に感謝でした。

 

 

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街の掲示板には『義士祭』のポスター。

泉岳寺に近づくにつれて人もだんだんと増えて行き、

忠臣蔵のストーリーと共に周囲の雰囲気も盛り上がってきたように感じます。

 

 

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『四十七義士』と刻まれた石碑が出てきました。

泉岳寺まで、もう少し!!

 

 

泉岳寺

 中門

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泉岳寺に到着しました。

中門を通って、中に入ります。

 

 

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時間も遅かったので義士祭のイベントは終了してしまったようですが、

境内は屋台が並び、多くの参拝客で賑わっていました。

どしゃぶりだった雨も弱まり、青空が見えるように。

 

 

 大石内蔵助

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山門の前では、大石内蔵助がお出迎え。

鋭い視線は江戸の方向に向けられているそうです。

 

 

 山門

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かつては三門と言って、総門・中門・山門と3つの門が並んでいたそうです。

現在は中門と山門のみ。

 

 

銅彫大蟠龍

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山門の下で天井を見上げると、クルリと丸まった龍の姿を見ることができます。

 

 

 本堂

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【御本尊】
釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)

【宗派】
曹洞宗

【御由緒】
泉岳寺曹洞宗の寺院です。
曹洞宗のご本山は二つあり、一つは道元禅師が開かれた福井県永平寺、もう一つは横浜鶴見の總持寺です。
道元禅師の主著は仏教の真髄を表した『正法眼蔵』という95巻に亘る書物です。
さて、泉岳寺は慶長17年(1612年)に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を拝請して徳川家康が外桜田(現在の警視庁の近く)に創立した寺院です。
しかしながら寛永18年(1641年)の寛永の大火によって焼失。そして現在の高輪の地に移転してきました。時の将軍家光が高輪泉岳寺の復興がままならない様子を見て、毛利・浅野・朽木・丹波・水谷の五大名に命じ、高輪に移転した泉岳寺はできあがったのです。浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のものです。
一般的には赤穂義士のお墓があることで有名ですが、創建時より七堂伽藍を完備して、諸国の僧侶200名近くが参学する叢林として、また曹洞宗江戸三ヶ寺ならびに三学寮の一つとして名を馳せていました。
その家風は引き継がれており、人数は少ないものの、大学で仏教を学びつつ泉岳寺で修行を勤めるという若い修行僧が、現在もいます。
(出典:公式サイト

本堂には、大石内蔵助の守り本尊、摩利支天(秘仏)が納められています。

 

 

 赤穂義士墓所入口

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本堂をお参りした後、赤穂義士墓所へ向かいました。

 

【元禄16年2月4日】

主君の仇討ちを果たした四十七士は、

細川家・水野家・毛利家・松平家の4大名家のお預けとなります。

処分を検討した結果、幕府は彼らに対して切腹を命じます。

四十七士はそれぞれの預け先で切腹

遺骸は主君と同じく、泉岳寺に埋葬されました。

 

 

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泉岳寺の一画、門の先に墓所があります。

この門は、浅野家鉄砲州上屋敷(現聖路加病院)の裏門を明治時代に移築したもの。

入口にて、お線香を一束購入しました。

 

 

 浅野内匠頭の墓

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墓所入口の門をくぐると、赤穂藩浅野内匠頭の墓があります。

 

 

 瑤泉院の墓

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浅野内匠頭の手前には、正室瑤泉院の墓。

瑤泉院の墓といえば、西巣鴨妙行寺にもあったことを思い出しました。

四谷怪談のお岩さんのお墓のすぐ近く。

浅野家の墓と案内板があった記憶ですが・・・

この時はお岩さんメインの旅だったのであまり見ていませんでした。。。

 

www.mi-cha34.com

 

 

赤穂義士の墓

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浅野夫妻の墓を奥に進むと、石の柵で囲われた四十七士の墓があります。

なんと凄い人の数!!

お線香の煙で中の様子が見えません。

参拝客も年配の方から若い方まで、現在も忠臣蔵の人気がうかがえます。

 

 

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お墓の配置はこのようになっています。

四十七士は、預け先ごとにまとまって並んでいました。

 

 

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数十分並び、いよいよ中へ。

人の流れについて行く形で、ひとりひとりの墓碑の前にお線香を置いて行きます。

購入したお線香には火が着いていなかったので火はどこかと尋ねると、

係りの方から「置くだけで勝手に燃えます!!」と言われました。

「最近のお線香って勝手に燃えるの?」と不思議に思っていたのですが・・・

既に供えられたお線香の山は、燃え上がり炎が出ている状態。

それを見て「あぁ、そういうことね!」と納得しました。

 

墓碑の裏には名前と年齢が書かれた立て札がありました。

年齢は20~30代を中心に、下は10代、上は60代。

 

 

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大石内蔵助・主税親子の墓は、他のものより墓碑が大きく屋根付きと、

ちょっと豪華。

 

 

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戒名はみな、『刃』の文字で始まり『剱』の文字が入っています。

 

 

供養墓

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そんな中、他とは異なる墓碑がありました。

寺坂吉右衛門

『遂道退身信士』の戒名が刻まれています。

寺坂は討ち入り後に姿を消し、四十七士の中で唯一切腹を免れた人物で、

逃亡説・事の顛末を報告するため離脱した説・そもそも参加すらしていない説・・

といろいろ考えられていますが、真相は謎です。

寺坂は天寿を全うし83歳で病死、港区の曹渓寺に埋葬されました。

泉岳寺には明治元年に供養墓が建てられています。

 

また、間新六も墓碑は並ぶも埋葬はされていません。

遺体は家族に引き取られたそうです。

 

 

48人目の義士

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ここでもう1度、墓所の配置図を見直します。

お墓の数を数えてみると、四十七士のはずが48基あることに気づきます。

 

 

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萱野三平(享年28)。

江戸城で主君が起こした刃傷事件の第一報を赤穂へもたらした人物です。

江戸から赤穂まで17日かかるところを4日で走破したと言われています。

忠義心篤く討ち入りの参加を熱望していましたが、

周囲の猛反対に遭い討ち入り前(浅野の月命日)に自刃してしまいました。

明和4年、四十七と共に供養墓が建てられています。

 

 

 墓所からの眺め

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人の多さから流れ作業的にお線香を供え、墓所を出ました。

煙で目が痛いし、むせて咳込むしで、終始慌ただしかったです。

ただ、墓所に差し掛かった頃に雨がやんでくれたのは助かりました。

正直、傘を差しながらではきつかったと思います。

墓所を出たところで、近くにいたおじさんに「あっち見てみな」と言われました。

指さした方に目を向けると、空に虹が出ていました。

その虹を見て「今日は特別な日なんだな~」と、なんとなく思いました。

 

 

泉岳寺で感じる忠臣蔵

境内は墓所以外にも、忠臣蔵ゆかりのスポットがあります。

 

 

 首洗いの井戸

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吉良の首を洗ったと伝わる、首洗いの井戸。

この雰囲気とひんやりとした空気に、少しゾッとしました。

 

 

血染めの梅・血染めの石、瑤池梅

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浅野内匠頭が田村邸の庭先で切腹した際、その血がかかったとされる梅と石。

その先には、義士の墓守をした堀部妙海法尼が瑤泉院から賜った梅もあります。

 

 

 主税梅

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大石主税切腹した松平邸に植えられていた梅。

 

 

赤穂義士記念館・義士木像館

 赤穂義士記念館

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最後に、赤穂義士記念館を見学しました。

浅野内匠頭の陣笠、討ち入りの際に使用したという陣太鼓、書状、掛け軸などを

見ることができました。

 

 

 義士木像館

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赤穂義士記念館の入場券で入れる、義士木像館にも行ってみました。

明治2年までに作成された四十七士の木像が並んでいます。

木像館には人がおらず、1人色あせた古い像に囲まれ、怖かったです・・・。

 

 

御朱印

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御朱印は直書きでした。

時間がかかるとのことで、御朱印帳を寺務所に預け境内を回りました。

 

* * *

 

これにて『忠臣蔵ゆかりの地をめぐる旅』終了!!!のはずでしたが・・・

泉岳寺から駅へ向かおうとしたところ、

おばあちゃんに呼び止められチラシをもらいました。

そこには『切腹の地開場』の文字と地図が。

期間限定で大石内蔵助切腹地を公開しているとのことでした。

切腹の地は調べてなかった~!!!」

これに関しては調べるにも至らない程、思いつきもしなかった場所です。

これは教えてもらえてラッキー☆

さっそく地図を頼りに、切腹地へ向かいました。

忠臣蔵ゆかりの地をめぐる旅』延長戦です!

 

 

 

 

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【萬松山 泉岳寺
所在地:東京都港区高輪2-11-1
アクセス:JR「高輪ゲートウェイ駅」より徒歩7分、都営浅草線泉岳寺駅」より徒歩3分
御朱印:有
オリジナル御朱印帳:有
駐車場:無
公式サイト:https://sengakuji.or.jp/

赤穂義士記念館・義士木像館】
入館料:大人500円、中高生400円、小人250円(記念館・木像館共通券)
開館時間:9:00~16:00
(※2021年12月14日時点の情報です。)

多聞院(埼玉県所沢市) ~寅と芋と飛行機と 1/3~

【2022/01/04 ぶら旅コース】
多聞院 → 神明社所澤神明社

 

寅年の旅始め

元旦は地元の神社をお参り(記事省略)、

2日は千葉の産土神社をお参り(記事省略)、

3日休んで、

4日は干支の神様をお参りしてきました。

 

今年の干支『トラ』にまつわる寺社はないかしら・・・?

と思い探してみると、狛犬ならぬ狛寅が鎮座するお寺を発見!!

さまざまな動物の狛〇〇を見ましたが、トラは初めてです。

東京・埼玉で3軒ほど見つけたので、

その中から埼玉県所沢市のお寺へ行ってみることにしました。

 

 

多聞院

 入口

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航空公園駅からバスで40分、多聞院を訪ねました。

交通機関で行く場合、駅から遠い上バスの本数がとても少ないので、

行きのバス・観光時間・帰りのバスなど、

事前にスケジュールを組んでおくことをお勧めします。

バス停の周りは畑しかないので、変に時間が余ると大変!!

逆に観光時間が短く、せかせか旅になってしまうことも・・・。

 

 

 参道

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多聞院は牡丹の名所で「牡丹の寺」と呼ばれています。

時期になると、23種類300株以上の花が咲くのだとか。

冬は少し寂しげな風景ですが、牡丹が咲き乱れる境内はとても美しいことでしょう。

その他にも様々な草花、秋には紅葉が楽しめるそうです。

 

この日、境内は初詣の参拝客でにぎわっていました。

それでも三箇日を過ぎていたので大混雑というわけでもなく、

程よい活気に包まれていました。

元旦に行った神社も、2日に行った神社も、参拝客に会うことがなかったので、

ここでやっとお正月気分を味わえたような気がします。

 

 

 多門院毘沙門堂

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【御本尊】
毘沙門天(びしゃもんてん)

【御由緒】
江戸時代中期の元禄7年(1694年)1月、川越城主柳澤美濃守吉保は武蔵野の開拓を計画。命を受けた家老の曽根権太夫は地割り開拓に着手。元禄9年、この画期的大計画は無事終了、上富(現三芳町)、中富、下富(現所沢市)の三村が生まれ、村民のための祈願所として多聞院が創建された。開山は江戸城四谷愛染院第4世榮任和尚。
毘沙門堂には、武田信玄の守り本尊であった黄金の毘沙門天が祀られている。信玄はこの毘沙門天(約4cm)を兜の中に納め川中島の合戦など数々の戦に出陣した。信玄歿後、毘沙門天は縁あって吉保の手に渡り、安置したのである。
身代わり寅の奉納、正月のだるま市など四季を通して多くの参拝者でにぎわう。
本尊の毘沙門天は、寅年の寅まつり・大般若心経転読会で御開帳される。
(出典:パンフレット)

参道の先には、毘沙門天をお祀りする毘沙門堂

狛寅の所以は、ここにありました。

毘沙門天の出現が寅年・寅日・寅の刻であったことから、

寅が毘沙門天の神使なのだそうです。

私はてっきりムカデだと思っていたのですが・・・それも間違いではないようです。

 

寅年の寅まつり(5月1日)は御本尊が御開帳されるとのこと。

今年が12年に1度のチャンスです!!

 

 

 狛寅

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そして毘沙門堂の前に佇むのが、この旅の目的『狛寅』です。

体に薄っすら縞模様が入っています。

トラのイメージとは違って、どちらかというとチーターのような?

とてもシャープなシルエットをしていました。

鋭い目つきで、御本尊様をお守りしています。

 

 

身がわり寅

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お堂には、たくさんの小さな寅が並んでいました。

「身がわり寅」と言って、

身にふりかかる災いをこの寅に託し奉納するのだそうです。

 

 

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よく見ると、ひとつひとつ顔が違う!!

 

 

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あまりのかわいさに、私もひとつ奉納させてもらいました。

 

 

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私の寅はこんなお顔。

箱の中からこちらを見上げる状態でいたので、思わず掴んでしまいました。

 

その小さな寅は、焼き物で作られていました。

鈴のようになっていて、振ると「カラカラ」と音がします。

それがまた耳心地の良い音で思わず持ち帰りたくなってしまうのですが、

なにせ災いを託していますからね・・・おとなしくお堂の片隅に置いてきました。

できることなら普通に欲しかった・・・それくらい見た目と音に癒されます。

 

 

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寅に名前を書いて納めます。

「今年もケガや事故なく楽しい旅ができますように・・・」そんな願いを込めて、

本名と一緒にブログのニックネームも書いておきました。

 

 

その他境内

お参りを済ませ、境内を探索します。

多聞院は狛寅以外にもなかなかユニークなお寺でした。

 

 

 本堂

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【御本尊】
大日如来(だいにちにょらい)

【宗派】
真言宗富山派

 

 

 弘法大師坐像

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木の陰で少々怖くなってしまいました・・・。

 

 

 半僧坊大権現の社

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 正一位稲荷大明神

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子育・水子地蔵

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鬼の悟り

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鬼が我慢をしている様子だそうです。

 

 

 鬼の寒念仏

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鬼が奉加帳を持っています。

鬼のように冷酷な人が表面だけ神妙に振る舞うといった意味のことわざ。

 

 

 傘地蔵

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昔読んだ『傘地蔵』

1体だけ手ぬぐいを被っています。

・・・そうだ!おじいさんが持っていた傘がひとつ足りなかったんですよね。

 

 

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お地蔵様の恩返し。

サツマイモがゴロゴロありますね。

サツマイモと言えば川越が有名ですが、その発祥は現在の所沢なのだそうです。

(後にサツマイモにまつわる神社もご紹介します。)

 

 

 力石

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力石が土俵で相撲勝負!

 

 

 開運 かわらけ当て

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開運・厄除けなどを願い、土器(かわらけ)を石の的に投げます。

 

 

御朱印

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最後に寺務所で御朱印をいただきました。

書置きになります。

 

 

焼き団子

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境内を散策中、なにやら良い香りが漂ってきました。

その香りをたどって行くと、駐車場にお団子屋さんの屋台が!

お団子以外にも、玉こんにゃく・甘酒・おしるこなんかもありました。

 

 

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思わず焼き団子(120円)を購入。

ほんのり温かいお団子。

お醤油の香ばしさが最高に美味しかったです。

ここで知ったのですが、焼き団子は所沢のご当地グルメのひとつだそうです。

予期せぬご当地グルメとの出会いにも感謝♪

 

 

 

 

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【宝塔山 吉祥寺 多聞院】
所在地:埼玉県所沢市中富1501
アクセス:西武新宿線航空公園駅」よりバス「多聞院通り西」下車徒歩5分他
御朱印:有
駐車場:有
(※2022年1月4日時点の情報です。)

茂林寺(群馬県館林市) ~館林をめぐる旅 1/8~

【2021/07/24 ぶら旅コース】
茂林寺花山うどん

【2019/03/24 ぶら旅コース】
子神社長良神社尾曳稲荷神社雷電神社・伊奈良神社林屋茂林寺もり陣
【コースMAP:子神社~もり陣

 

館林めぐり

所用で群馬県館林市に行ってきました。

予定は午後からでしたが、ちょっと早めの午前9時に現地入り。

館林には私の好きなお寺があるので、

用事の前に、お寺の参拝と館林うどんを堪能しました。

 

 

『ぶんぶく茶釜』狸の町

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予定がある館林駅へ行く前に、ひとつ手前の茂林寺前駅で下車しました。

駅名でお気づきになるかと思いますが、茂林寺というお寺を参拝します。

茂林寺は、童話『ぶんぶく茶釜』の由来となったお寺。

そのため町のあちこちで狸の像を目にします。

 

 

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さっそく駅前で、狸の親子(?)に会いました。

これから、家族でお出かけかな?

 

 

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こんな看板もあったので、本物の狸に会うこともあるみたいですね。

 

 

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駅から茂林寺までは徒歩10分の道のり。

その道沿いには、ぶんぶく茶釜のストーリーが書かれた看板が並んでおり、

1~13のお話を読み進めていくと茂林寺にたどり着くことができます。 

 

 

<ぶんぶく茶釜(童話Ver.)>
昔々、上野国館林に、茂林寺というお寺がありました。
ある日、茂林寺の和尚さんは村の道具屋で茶釜を買いました。
和尚さんが、千人法会の日に茶釜を使用したところ、どんなにお茶を入れても、茶釜のお湯は少しも減りませんでした。
その夜、和尚さんが眠っていると、茶釜が置いてある部屋から物音がしました。覗いてみると、なんと茶釜が狸に化けているではありませんか。和尚さんが、みんなを呼びに行って部屋に戻ると、茶釜はもとの茶釜に戻っていました。
次の日、和尚さんは道具屋さんを呼んで、気味が悪いからこの茶釜を壊してしまおうかと話していると、狸は話を聞いて、慌てて頭を出し、手足を出して飛び上がりました。狸は、驚かすつもりはなく、恩返しがしたかっただけだと、和尚さんに謝りました。
和尚さんは怒ることもなく、村のみんなにもこの狸の茶釜を見せてやりたいと言いました。
お寺に演芸場を作り、狸の茶釜が踊りながら綱の上で宙返り。お客さんは大喜び。毎日毎日、たくさんのお客さんが来ました。
狸の茶釜のおかげで入ったたくさんのお金で、和尚さんは、村のために橋を作ったり、堤防を作ったりしました。
そして、和尚さんは「みんなに福が分けられた」と、この狸を『分福茶釜』と名付けました。
昔々の物語。今では、この茶釜は茂林寺で静かに眠っています。
(出典:茂林寺パンフレット)
分福茶釜茂林寺Ver.)>
寺伝によると、開山大林正通に従って、伊香保から館林に来た守鶴は、代々の住職に仕えました。
元亀元年(1570年)、七世月舟正初の代に茂林寺で千人法会が催された際、大勢の来客を賄う湯釜が必要になりました。その時、守鶴は一夜のうちに、どこからか一つの茶釜を持ってきて、茶堂に備えました。ところが、この茶釜は不思議なことにいくら湯を汲んでも尽きることがありませんでした。守鶴は、自らこの茶釜を、福を分ける与える「紫金銅分福茶釜」と名付け、この茶釜の湯で喉を潤す者は、開運出世・寿命長久等、八つの功徳に授かると言いました。
その後、守鶴は十世天南正青の代に、熟睡していて手足に毛が生え、尾が付いた狢(狸の説もある)の正体を現してしまいます。これ以上、寺にはいられないと悟った守鶴は、名残を惜しみ、人々に源平屋島の合戦と釈迦の説法の二場面を再現して見せます。
人々が感涙にむせぶ中、守鶴は狢の姿となり、飛び去りました。時は天正15年(1587年)2月28日。守鶴が開山大林正通と小庵を結んでから161年の月日が経っていました。
後にこの寺伝は、明治・大正期の作家、巌谷小波氏によってお伽噺「文福茶釜」として出版され、茶釜から顔や手足を出して綱渡りする狸の姿が、広く世に知られる事になりました。
(出典:茂林寺HP

童話のぶんぶく茶釜は、茂林寺に残る伝説を基に作られています。

童話では茶釜に化けた狸が描かれていますが、

もともとは狸の化身だった老僧が持ち込んだ不思議な茶釜のお話だったようです。

こうして読み比べてみると、子ども向けのアレンジが素晴らしいですね。

 

 

茂林寺

 寺標

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お話を読んでいるうちに、あっという間に茂林寺に到着しました。

 

 

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参道には、おみやげ屋さんが並びます。

(閉業しているお店がほとんど??)

開店準備をしていた店員さんが、

「おはようございま~す」

「暑い中、ご苦労様」

などと声をかけてくれました。

ここのおみやげ屋さんは、とてもフレンドリーな方が多いです。

 

 

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妖艶な看板娘もお出迎えしてくれました。

 

 

 総門

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総門から境内に入ります。

この門をくぐると、童話の世界へ入りこんでしまったような、、、?

ちょっとユニークな景色を目にすることになります。

 

 

 参道・山門

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総門から山門までの参道。

参道の両脇に何やら立っていますね・・・

 

 

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たぬき!タヌキ!!狸です!!!

この参道には20体以上の狸が整列して、参拝客を歓迎してくれます。

狸たちに挟まれて歩く参道は、

まるでファッションショーのランウェイを歩いているかのよう。

 

 

 参道狸コレクション

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参道に並ぶ狸たちをちょこっとご紹介。

「コロナに負けるな」

感染予防バッチリ狸。

 

 

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お数珠を持った和尚狸。

 

 

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木魚はまかせろ狸。

 

 

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酒飲み狸。

 

 

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枝をくわえたワイルド狸。

 

 

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おちゃめな分福茶釜狸。

私はこの茶釜タイプが好きですね~かわいいです♪

 

この日の狸たちは普通の姿をしていましたが、

季節や行事によって素敵に着飾った狸たちを見ることができます。

以前訪れた時は、お相撲さんの浴衣を着ていたことがありました。 

 

 

 巨大狸

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山門の近くには、巨大なボス狸が待ち構えています。

単体の写真ではわかり難いと思いますが、、、

 

 

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お隣の狸(参道の狸より少し小さめ)と比べるとこの通りです。

 

ふと気づいたのですが、茂林寺の狸はみんな上を向いていますね、、なぜだろう?

上を向いて歩こう!」的な意味合いでもあるのでしょうか?

 

 

 本堂・宝物殿

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【御本尊】
釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)

【宗派】
曹洞宗

【御由緒】
曹洞宗名刹、青龍山茂林寺は、その開山を大林正通としています。正通は美濃国土岐氏の出目で、龍泰寺開山華叟正蕚の法嗣でした。寺伝によると、正通は諸国行脚の折、上野国に立ち寄り、伊香保山麓で守鶴と出会います。この守鶴は、のちに茂林寺分福茶釜を持ち込んだ老僧です。
応永33年、正通は守鶴を伴い、館林の地に来往し、小庵を結びます。応仁2年、青柳城主赤井正光は、正通に深く帰依し、自領地の内8万坪を寄進し、小庵を改めて堂宇を建立し、青龍山茂林寺と号しました。正光は、自ら当山の開基大檀那となり、伽藍の維持に務めました。大永2年には、後柏原天皇から勅願寺の綸旨を賜ります。寛永19年(1642年)には、三代将軍徳川家光より23石4斗余の朱印を下賜されております。
(出典:茂林寺パンフレット)

御本尊様へのお参りを済ませた後、本堂の中にある宝物館を見学しました。

宝物館では、実物の分福茶釜を見ることができます。

(写真撮影禁止)

実際に分福茶釜を見てみると・・・

童話の印象が強かったので小さな茶釜を想像していたのですが、

いやいや、人が持つのもやっとでは?それほど大きくズッシリとした茶釜でした。

狸だったら釜の中に2匹は入れるかもしれません。

他にも様々なファッションや仕草をした狸像、狸のはく製、資料などなど、

とにかく狸が楽しめます。

参拝に行かれた際は、宝物館も覗いてみるのもおすすめです!

 

 

 守鶴堂

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本堂の近くには、茶釜を持ち込んだ守鶴和尚をお祀りするお堂があります。

 

 

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お堂の前には狛狸。

 

 

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お堂の周りにもたくさんの狸が、、、みんないい笑顔ですね。

 

 石碑

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境内の隅には、童話の一部が刻まれた石碑もありました。 

 

 

境内の樹々

狸ばかりに目が行ってしまいますが、、、

緑に囲まれた境内では、花や樹々などもゆっくり眺めたいものです。

 

 

 しだれ桜

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本堂の前には、立派なしだれ桜。

 

 

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本堂が隠れてしまうほど、葉が茂っています。

緑の時期もきれいで大好きなのですが、本堂の撮影には手こずりました・・・。

 

 

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しかし、花の季節になると、こんなにも美しい。

これは3月の、まだ肌寒い時期です。

 

 

 ラカンマキ

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群馬県の天然記念物、ラカンマキ。

高さ5m程度が一般的なものに対し、茂林寺ラカンマキは14mもあります。

茂林寺開基の際に植えられ、樹齢580年以上。

葉先が尖っていることから、魔除けとして植えられたそうです。

花の見頃は、5月~6月とのこと。

 

 

 藤

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藤棚もありました。

 

今回は時期的に花を見ることができませんでしたが、

元気に茂る緑もとてもさわやかできれいでした。

 

 

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おっ!

草むらの中にも狸発見!!

 

 

御朱印

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御朱印は2種類です。

こちらは、御本尊様のお名前が書かれたもの。

(現在は書置きのみのようです。)

 

 

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こちらは『分福』と書かれています。

福の字が狸のお腹のようなデザインでかわいらしいです。

 

 

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そして、もう一枚。

御朱印ではありませんが、御朱印と一緒に袋に入っていました。

アマビエ狸~!

コロナが終息するまでの期間限定でしょうか???

このかわいらしさに思わず笑ってしまいました、、笑って免疫力UPですね ↑

 

 

茂林寺公園

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茂林寺に隣接する、茂林寺公園。

沼や湿原が広がり、散策することができます。

 

 

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茂林寺に訪れるたびに歩いてみよう思うのですが、未だ未散策。。

今回も入口付近から茂林寺沼を眺めて終わりました。

とてつもなく暑かったので・・・。

もしかすると、茂林寺沼でアマビエ狸に会えたかもしれませんね。

 

 

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茂林寺の参拝を終え、駅へ戻ります。

茂林寺のすぐ近くで、ぶんぶく茶釜のマンホールを見つけました!

何度か来ているのに、初めて気づいた~。

このマンホールも、是非、探してみてください。 

 

 

 

 

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【青龍山 茂林寺
所在地:群馬県館林市堀工町1570
アクセス:東武伊勢崎線茂林寺前駅」より徒歩10分
拝観時間:9:00~16:00
定休日:木曜日不定
宝物館拝観料:300円(一般)、150円(子ども)
御朱印:有
駐車場:有
公式サイト:http://www7.plala.or.jp/morin/index.html
(※2021年7月24日時点の情報です。)

井沢弥惣兵衛為永の墓/常福寺・柴山伏越(埼玉県白岡市) ~氷川レイラインと見沼の竜伝説をたどる旅 追加旅~

プロローグ】
氷川三社と見沼の竜伝説について

【2021/04/03 ぶら旅コース】
<さいたま新都心駅> → 大宮氷川神社 → 氷川だんご → <バス> → 中山神社 → <バス> → <北浦和駅> → <電車> →  <東浦和駅> → <バス> → 氷川女体神社国昌寺見沼の龍萬年寺見沼自然公園 → <バス> → <大宮駅>
【コースMAP:大宮氷川神社~見沼自然公園(※車表示の為、実際のルートと異なります。)】

【2021/04/10 ぶら旅コース】
<東川口駅> → 大門神社 → <東川口駅> → <電車> → <東浦和駅> → 厳嶋神社(下山口弁天) →  見沼通船堀・八丁堤 喫茶 花あかり下山口新田稲荷社・大間木水神社鈴木家住宅 → <東浦和駅>
【コースMAP:大門神社~鈴木家住宅(※車表示の為、実際のルートと異なります。)】

【2021/07/12 追加旅】
常福寺・柴山伏越

 

追加旅

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(写真:見沼自然公園

幼い頃から当たり前の風景であった、見沼代用水。

もちろん、現在の完全に整備された状態でしか見たことがなかったので、

その歴史が江戸時代にまで遡るとは思いませんでした。

そして、井沢弥惣兵衛為永とう人物を知ったのも、この旅がきっかけです。

 

 

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見沼の竜伝説をめぐっている中で、

井沢弥惣兵衛の墓が白岡市にあるということを知り、行ってみることにしました。

これだけ記事を書かせてもらったので、最後にお礼をと。

そんなわけで、これを最後にこのシリーズを終わりにしたいと思います。

 

場所はさいたま市から変わって、白岡市柴山。

田んぼが広がるのどかな風景です。

柴山には柴山沼という有名な釣りスポットもあります。

 

 

常福寺

 山門

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常福寺に来ました。

車で行ったのですが、直前までの道が狭くて狭くて、、、

対向車とすれ違うのにどうしたらいいのかわからずヒヤヒヤしてしまいました。

墓地があるので駐車場もあるかと思っていたのですが見当たらず。

近くに駐車できそうなスペースがあったので、そこに車を停めさせてもらいました。

 

 

 本堂

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【御本尊】
不動明王(ふどうみょうおう)

【宗派】
曹洞宗

【御由緒】
柴山にある曹洞宗の寺で除堀(現久喜市)の不動寺の末寺。山号は聚光山。本尊は不動明王常福寺には寺の前を流れる見沼代用水の開削に当たった紀州流土木技術者である井沢弥惣兵衛為永の墓石もある。
(出典:白岡市HP

境内は本堂のそばにお地蔵様が立っていたくらいで、その他は墓地のようでした。

 

 

 井沢弥惣兵衛為永の墓

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井沢弥惣兵衛為永の墓は、門の外側に入口があります。

 

 

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【井沢弥惣兵衛為永の墓】
見沼代用水路普請奉行
幕府勘定吟味役 紀州流土木技術者
紀州溝口村(和歌山県海南市)に生まれました。はじめ紀州徳川家に仕えましたが、藩主吉宗が8代将軍となった時、招かれて旗本となる。全国各地の河川改修や新田開発いい著しい活躍をし、勘定吟味役に昇進しました。
為永の行った最大かつ代表的な紀州流土木事業が、見沼の開発であり、享保12~3年(1727~1728年)奉行として自ら測量設計監督にあたり見沼の干拓、代用水路の開削、沿線の新田開発を行った。重要な施設の中でも、この地の柴山伏越は用水と河川の立体交差で、瓦葺掛度井(現在伏越)と共に為永のすぐれた技術を知ることができます。
元文3年(1738年)3月1日逝去、享年76歳、江戸麹町(東京都千代田区)心法寺に葬られました。
法名 崇岳院殿隆誉賢厳英翁居士(すうがくいんでんりゅうよけんげんえいおうこじ)
明和4年(1767年)水路沿線村民は為永の遺徳をしのび、ここ常福寺に分骨して墓石を建てました。
(出典:境内案内板)

最後に井沢弥惣兵衛のお墓参りができてよかったです。

とてもスッキリとした気分で、旅を終えることができました。 

 

 

柴山伏越

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常福寺の向かいには見沼代用水が流れています。

ここにも、弥惣兵衛の功績が残されているので、少し覗いてみました。

 

 

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柴山伏越とは、常福寺の先を横切る元荒川と見沼代用水の交差地点。

一見ただの川ですが、元荒川の川底を見沼代用水が通り抜けています。

 

 

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なぜか橋の写真しか撮っていなかったので、案内板の写真をお借りします。

大きな川が元荒川。

橋の左側に見沼代用水が通っています。

『上流の白岡市柴山から元荒川の川底を見沼代用水路が、

木製の樋管を使ってサイフォン方式で潜り、

下流蓮田市上平野に抜け出るしくみ。』

になっているそうです。

 

 

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現在はコンクリート製ですが木製の伏越は老朽化が激しく、

現在に至るまでに20数回の改修工事が行われたそうです。

 

 

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弥惣兵衛の墓の目の前には水門。

この水門は、見沼代用水の水量の増減を調節しています。

 

 

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少しばかりホラーな案内板。笑

私は橋を渡りませんでしたが、

元荒川の向こう側の水門までが見学コースになっているようです。

 

* * *

 

といった感じで、

『氷川レイラインと見沼の竜伝説をたどる旅』

これにて本当に終了です。

 

 

 

 

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【聚光山 常福寺
所在地:埼玉県白岡市柴山1103
アクセス:JR「蓮田駅」よりバス「西上平野」下車徒歩17分
御朱印:無
駐車場:不明

【芝山伏越】
常福寺のすぐそば

(※2021年7月12日時点の情報です。)

萬年寺(埼玉県さいたま市) ~氷川レイラインと見沼の竜伝説をたどる旅 8/15~

【プロローグ】
氷川三社と見沼の竜伝説について

【2021/04/03 ぶら旅コース】
<さいたま新都心駅> → 大宮氷川神社 → 氷川だんご → <バス> → 中山神社 → <バス> → <北浦和駅> → <電車> →  <東浦和駅> → <バス> → 氷川女体神社国昌寺見沼の龍萬年寺見沼自然公園 → <バス> → <大宮駅>
【コースMAP:大宮氷川神社~見沼自然公園(※車表示の為、実際のルートと異なります。)】

【2021/04/10 ぶら旅コース】
<東川口駅> → 大門神社 → <東川口駅> → <電車> → <東浦和駅> → 厳嶋神社(下山口弁天) →  見沼通船堀・八丁堤喫茶 花あかり下山口新田稲荷社・大間木水神社鈴木家住宅 → <東浦和駅>
【コースMAP:大門神社~鈴木家住宅(※車表示の為、実際のルートと異なります。)】

【2021/07/12 追加旅】
常福寺・柴山伏越
 

萬年寺

 山門

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見沼の竜『マルコ』に別れを告げ、萬年寺へ向かいました。

前回「竜が役人に新田開発の中止を訴えた」という伝説をご紹介しましたが、

その伝説の舞台のひとつとなっているのがこのお寺です。

 

 

 本殿

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【御本尊】
釈迦如来(しゃかにょらい)

【宗派】
曹洞宗

【御由緒】
萬年寺は、見沼を望む台地上に位置する曹洞宗の寺院です。永正6年(1509年)に開山し、天正19年(1591年)に徳川家康から寺領20石を拝領した古刹です。
江戸時代初期、見沼溜井造成に際し、寺域が水没したため伽藍を現在地に移したと伝わります。江戸時代中期には、溜井の干拓及び見沼代用水路の開削事業に際して、工事を担当した井澤弥惣兵衛為永が詰所を当寺に設けたと伝わり、文化14年(1817年)になって、見沼代用水路沿線の通船関係者が、為永ゆかりの当寺に顕彰碑を建立し、事績をしのびました。
なお、見沼周辺には、井澤弥惣兵衛為永と見沼の竜神にまつわる伝説が数多く残っています。
この地、境内には、瘤地蔵、庚申塔、当寺の中興開基となる初鹿野伝右衛門昌久の墓などがあります。幕末から明治にかけては寺小屋が開設され、村の子弟の教育にあたりました。
(出典:境内案内板)

 萬年寺は、現在の見沼代用水路建設時に、詰所として利用されていました。

 

 

 境内

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鐘楼。

 

 

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コブを治してくださるという、瘤地蔵。

 

 

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馬頭観音

 

 

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謎のお堂。



見沼の竜伝説『見沼の龍神灯』

【見沼の龍神灯】
将軍吉宗の命を受けた井澤弥惣兵衛為永は、この辺りの見沼を干拓し、利根川から代わりの水を引く工事をしていました。ある晩のこと、為永は夢を見ました。見沼の主である龍神という美しい娘が現れ、「私の住むところがなくなる、新しい住処を探すまで工事を中止してほしい・・・」といいます。来春の稲の作付けに間に合わせるため工事は1日も休めません。そのうち工事に負傷者や障害が続出し、為永も病に倒れてしまいました。するとまた夢に先ほどの美女が現れ、「おまえの病を治してあげるから、私の頼みも聞いて欲しい・・・」と、毎夜やってきては、夜明けに姿を消します。為永の病気はにわかに良くなりましたが、家来が為永の部屋を覗くと、蛇身の女が為永の体をなめまわしていました。家来の者もそれには気を失い、為永もその話を聞くと肝を冷やしました。
為永は、詰所を萬年寺に移しました。萬年寺でも、棺が門をくぐろうとする途中に舞い上がるというようなことが起こったため、人々は龍神が為永の仕打ちを恨んでの仕業に違いないといいあったといいます。
為永は龍神を慰めるため龍神灯をお供えしました。この龍神灯は萬年寺の大松をあかあかと灯しました。
出典(案内板)

国昌寺と同様、こちらの門でもくぐる棺に不可思議なことが起こったようです。 

 

 

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その門とは、正面の赤い門のことでしょうか???

普通に開かれていて竜の彫り物もないので、別にあったのでしょうか???

 

 

 井澤弥惣兵衛為永

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(写真:見沼自然公園にて撮影したもの)

広大な沼であった見沼は、徳川の命により新田に姿を変えます。

その際、田に水を引くための溜井(見沼井)が作られました。

もっと米を作りたい幕府ですが、これでは農業用水が足りません。

そこで、利根川から水を引きできた用水路が、現在の見沼代用水となります。

 

用水路建設を担当した幕府の役人、井澤弥惣兵衛為永(写真)。

上記以外にも、竜と為永にまつわる伝説は多く残されているようで、

これが本当ならば竜と幕府の板挟みで散々だったことでしょう。。。

 

 

 伊奈氏

以前、『伊奈町の伝説』をめぐったことがありました。

伊奈氏屋敷跡周辺にも、龍や蛇のお話が多くあったことを思い出します。

というのも、井澤弥惣兵衛為永の時代から遡ること約100年前。

徳川家康の命で、見沼周辺の治水を行ったのが伊奈氏でした。

溜井も伊奈氏が作ったものです。

伊奈氏も「棲家を奪った」と龍神様に祟られていましたね・・・。

当時は「やたら龍が出てくるな~」なんて思う程度だったのですが、、、

ここへ来て伊奈町の伝説と話が繋がり、

今更ながら伊奈氏の働きをしっかり理解することができました。

 (伊奈町の伝説の記事はコチラ↓↓↓)

 

www.mi-cha34.com

 

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 井澤弥惣兵衛為永顕彰碑

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【井澤弥惣兵衛為永と見沼代用水】
この碑は、見沼代用水を開いた功労者・井澤弥惣兵衛をたたえたものです。
井澤弥惣兵衛為永は、江戸時代の寛文3年(1663年)に紀伊国和歌山県)溝口村(海南市)に生まれ、土木技術に才能を発揮し紀州藩主5代にわたり仕えました。
その後、8代将軍徳川吉宗に招かれ、幕府勘定方に着任し、享保12年(1727年)から埼玉県に広がる見沼の開発に着手しました。見沼の開発は、利根川の水を下中条条(行田市)から引き入れ、距離60kmkmにおよぶ見沼代用水路を掘り進め周辺に新たな水田を開くという大がかりのものでした。
着手してから半年という短期間で用水路を堀りあげたと伝えられています。なお、弥惣兵衛は見沼代用水の工事のため万年寺(萬年寺)境内に工事事務所を置いていました。また、見沼代用水と芝川を利用して江戸とを結ぶ水運の便をはかり、米をはじめとする物資の輸送を効果的に行えるようにしました。浦和市にある国指定史跡の閘門式運河・見沼通船堀が広く知られています。
この碑のほか利根川から取水口近くに井沢祠、白岡町柴山常福寺には墓石があり、井澤弥惣兵衛為永の功績を現在に伝えています。現在でも見沼で工事を行う際にはこの碑に参拝して工事の安全祈願をするといわれています。
なお、弥惣兵衛は元文3年(1738年)に75歳で没し、江戸麹町(東京都千代田区麹町)の心法寺に葬られています。
(出典:境内案内板)

 

 

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【長昌山 萬年寺】
所在地:埼玉県さいたま市見沼区片柳1-155
アクセス:JR「大宮駅」よりバス「三崎台」下車徒歩13分、他
御朱印:不明
駐車場:有
(※2021年4月3日付けの情報です。)

開かずの門/国昌寺(埼玉県さいたま市) ~氷川レイラインと見沼の竜伝説をたどる旅 6/15~

【プロローグ】
氷川三社と見沼の竜伝説について

【2021/04/03 ぶら旅コース】
<さいたま新都心駅> → 大宮氷川神社 → 氷川だんご → <バス> → 中山神社 → <バス> → <北浦和駅> → <電車> →  <東浦和駅> → <バス> → 氷川女体神社国昌寺見沼の龍萬年寺見沼自然公園 → <バス> → <大宮駅>
【コースMAP:大宮氷川神社~見沼自然公園(※車表示の為、実際のルートと異なります。)】

【2021/04/10 ぶら旅コース】
<東川口駅> → 大門神社 → <東川口駅> → <電車> → <東浦和駅> → 厳嶋神社(下山口弁天) →  見沼通船堀・八丁堤喫茶 花あかり下山口新田稲荷社・大間木水神社鈴木家住宅 → <東浦和駅>
【コースMAP:大門神社~鈴木家住宅(※車表示の為、実際のルートと異なります。)】

【2021/07/12 追加旅】
常福寺・柴山伏越
 

国昌寺

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氷川女体神社から歩くこと20分、見沼の竜伝説が残る国昌寺へ。


 

 本堂

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【御本尊】
釈迦如来(しゃかにょらい)

【宗派】
曹洞宗

【御由緒】
国昌寺は、曹洞宗の寺院で、大崎山国昌寺といいます。天正年間(1573~1592)、見沼区染谷にある常泉寺の第8世住職であった心巌宗智大和尚が開山しました。2世(中興開山)は能書家としても著名な大雲文竜です。
文竜は、名僧智識としてその名は朝廷にまで達し、特に書に秀でていたため、後陽成、後水尾両天皇から3度も召され、宮中で書を指南しています。寺には、寺宝として大雲文竜書の「大弁才尊天号」の軸物(市指定有形文化財)が伝わります。
山門は、江戸時代中期(宝暦頃)の建築で、市の有形文化財に指定されています。欄間の龍は、左甚五郎の作と伝えられるもので、棺を担いでこの門をくぐりぬけると、龍に中身を喰われて軽くなるという伝説を持っています。また、この龍は、もともと見沼に住んでいて作物を荒らしたので、日光から帰る途中の左甚五郎に龍を彫ってもらい、釘付けにしてい門におさめたという伝説もあります。
また、境内には、鎌倉時代の大型の阿弥陀一尊種子板石塔婆(市指定有形文化財)の文化財もあります。
(出典:境内案内板)

 

 

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お庭がきれいに整えられた、とても静かなお寺です。
 

 

 文鏡観音

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阿弥陀一尊種子板石塔婆

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見沼の竜伝説『開かずの門』

【開かずの門】
田畑を荒らす竜がいたので、日光帰りの左甚五郎に竜を掘ってもらい、山門に封じ込めました。
それからというもの、葬列が門下を通ると仏様が空になり棺が軽くなるので、これは甚五郎の竜が食べてしまったのだろうと、その竜を釘付けにし山門は閉ざされ「開かずの門」となりました。

国昌寺に残る竜伝説は、門に封じ込められてしまった竜のお話。

ここで登場する竜は、田畑を荒らしたり、仏様を食べてしまったり、、

とても困った竜です。

釘付けにされてもしかたないかもしれません・・・。

しかし、「作物を食べて生きていた竜が捕らえられてしまい、

お腹が空いて困ったあげく仏様に手を出してしまったのでは?」

なんて、竜目線から考えるとちょっと可哀そうなお話でもあります。。。

 

この伝説には、

川の氾濫・干ばつ・台風・・・何かしらの理由で不作の時期が続いた、

そんな背景が想像できます。

 

 

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こちらが、竜を封じ込めた門です。

江戸中期に建立。

現在の入口の並びに建っています。

開かずの門にしておくのはもったいないくらいの立派な門です。
 

 

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門の下から欄間を見上げると・・・いました!

 

 

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こちらが、いたずらっこの竜です。

人間に例えると「ちょっとやんちゃな男の子」といった印象の、

とてもイキイキとした竜が彫られています。

これは釘でも打っておかないと、今にも飛び出してきそうですね。

 

 

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この竜は、日光東照宮の『眠り猫』の作者、左甚五郎作と言われています。

日光で彫り物をした帰りに招き、この竜を彫ってもらったのだとか。

 

 

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境内側から見た門です。

表と違い、少し質素な感じです。

 

 

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裏側の欄間には竜はいませんでした。

「裏側の竜は逃げた」なんて伝説があったらおもしろいですね。

 

 

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この門は、磐船祭など特別な日に限り開門されるとのことです。

この顔!!

年に数度のチャンスを伺い、門を通る人々を狙っているようにしか見えないのは、

私だけでしょうか???

この門を通った時、上から竜のよだれが降ってくるかもしれません、、注意です!

 

 

御朱印

御朱印はあるそうですが、いただいてくるのを忘れました。。

次回伺った時にでも。

 

 

 

 

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【大崎山 国昌寺】
所在地:埼玉県さいたま市緑区大崎2378
アクセス:JR「浦和駅」「東浦和駅」よりバス「総持院」下車徒歩10分
御朱印:有
駐車場:有
(※2021年4月3日付けの情報です。)

【プロローグ】氷川三社と見沼の竜伝説 ~氷川レイラインと見沼の竜伝説をたどる旅 1/15~

【プロローグ】
氷川三社と見沼の竜伝説について

【2021/04/03 ぶら旅コース】
<さいたま新都心駅> → 大宮氷川神社氷川だんご → <バス> → 中山神社 → <バス> → <北浦和駅> → <電車> →  <東浦和駅> → <バス> → 氷川女体神社国昌寺見沼の龍萬年寺見沼自然公園 → <バス> → <大宮駅>
【コースMAP:大宮氷川神社~見沼自然公園(※車表示の為、実際のルートと異なります。)】

【2021/04/10 ぶら旅コース】
<東川口駅> → 大門神社 → <東川口駅> → <電車> → <東浦和駅> → 厳嶋神社(下山口弁天) →  見沼通船堀・八丁堤喫茶 花あかり下山口新田稲荷社・大間木水神社鈴木家住宅 → <東浦和駅>
【コースMAP:大門神社~鈴木家住宅(※車表示の為、実際のルートと異なります。)】

【2021/07/12 追加旅】
常福寺・柴山伏越
 

ぶら旅再開

何カ月ぶりでしょう・・・久しぶりにぶら旅に行ってきました。

コロナで自粛していたというのもありますが、

仕事が忙しくそれどころではなかったというのが理由の大半です。

ブログもなかなか更新できていませんしね。。

まだ完全に落ち着いてはいませんが(コロナも仕事も・・)、

体調管理に気を付けながら旅とブログを復活させて行きたいなと思っております。

 

さて今回は、氷川三社とそこにまつわる竜伝説ゆかりの地をめぐりました。

リハビリということで、普段からよく行っている神社をチョイス。

当初は氷川三社のみをサクッと回る予定だったのですが、、、

竜伝説について調べているうちにどんどんとコースが膨大に。

結果、2週に渡る大冒険となってしまいました。

少々はしゃぎすぎましたね。。。

 

それではさっそく本題!と行きたいところなのですが、、、

このシリーズの初回はプロローグとして、

氷川三社と龍神伝説について簡単に触れておこうと思います。

 

 

氷川三社

氷川神社大宮区)・ 中山神社見沼区)・ 氷川女体神社(緑区

今回は埼玉県さいたま市に鎮座する氷川神社3社を中心にめぐりました。

氷川神社とは大宮を総本社とし、荒川流域他280社以上鎮座する大きな神社です。

中でも「氷川三社」と呼ばれる上記3社は、

もともと三社一体で氷川神社を形成していたと言われています。

昔、その周辺に存在していた巨大な沼『見沼』の畔にあったことから、

見沼の水神様をお祀りしていたのではないかと考えられています。

 

現在の御祭神はスサノオファミリー。

氷川神社は『スサノオノミコト(夫)』をお祀りしていることから「男体社」、

中山神社は『オオナムチノミコト(子)』をお祀りしていることから「氷王子社」、

女体神社は『イナダヒメノミコト(妻)』をお祀りしていることから「女体社」、

とも呼ばれています。

 

 

 氷川レイライン

氷川神社中山神社・氷川女体神社は、レイラインで結ばれています。

3社は一直線上に配置されており、

夏至氷川神社に太陽が沈み、冬至は女体神社から太陽が昇ります。

レイラインというと結界やエネルギーの通り道などと言われることが多いですが、

この氷川レイラインに関しては、

稲作にとって重要な暦を把握するためではないかと考えられています。

 

 

見沼

江戸中期頃まで、この辺りは「見沼」と呼ばれる巨大な沼でした。

縄文時代に埼玉まで入り込んでいた奥東京湾が後退してできた沼沢地です。

その範囲は、現在のさいたま市(北区・大宮区見沼区浦和区緑区)と川口市

青いピンがその地域になります。

氷川神社はもともと見沼を『御沼』とし、そこに住む水神様をお祀りしていました。

MAPから、かなり広大な神域を持っていたことがわかります。

 

 

見沼の竜伝説

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氷川神社の神域であった見沼。

江戸時代に入ると、徳川の命で沼から新田へと姿を変えることになります。

そこで困ったのが、見沼を棲み処としていた竜。

さいたま市には、いたる地域に『見沼の竜伝説』が残っています。

 

さいたま龍神まつり会(さいたま市竜伝説)

ひとつひとつご紹介したいのですが、見沼の竜伝説はあまりにも数が多いので、

伝説とその大まかな内容がまとめてあるサイト↑をご参照いただけると幸いです。

 

今回は、数ある伝説の中から↓の5カ所をめぐりました。

  • 御船祭(氷川女体神社)
  • 開かずの門(国昌寺)
  • 見沼の竜神灯(萬年寺)
  • 釘付けの竜(愛宕神社
  • 美女と馬子(厳島神社

これらの寺社は、伝説が形として残されています。

 

* * *

 

というわけで、かなりざっくりとしていますが、

氷川三社と見沼の竜伝説について軽くお話させていただきました。

説明というよりは今後記事を書いて行くにあたってまとめておきたかったという、

個人的な事情で「プロローグ」を書きました、、

お付き合いありがとうございました。

次回からは旅の本編に入りたいと思います。

 

 

 

 

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亀井院(千葉県市川市) ~国府台ぶらりん旅 4/5~

【2020/10/24 ぶら旅コース】
國府神社国府台城跡/里見公園国府台天満宮 → 飛地天満宮亀井院 → 話飲茶屋 つぎはし
【コースMAP:国府台駅~国府台駅(※実際のルートと異なることがあります。)】

亀井院

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国府台駅に戻る途中、亀井院に立ち寄りました。

里見公園に北原白秋が暮らしていたという『紫烟草舎』が建っていましたね。

そこの案内板に白秋が紫烟草舎の前に暮らしていたお寺として紹介されていたので、

覗いてみることにしたのです。

 

 

 本堂

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【宗派】
日蓮宗

【御由緒】
万葉集歌人高橋虫麻呂は、手児奈が真間の井で水を汲んだという伝承を聞いて、
『勝鹿の真間の井を見れば立ち平し 水汲ましけむ手児奈し思ほゆ』
葛飾の真間の井を見ると、いつもいつもここに立って水をくんだという手児奈が偲ばれる。)の歌を残した。この真間の井は亀井院にある井戸がそれであると伝えられている。
亀井院は寛永12年(1635年)真間山弘法寺の11世日立上人が弘法寺貫主貫主の隠居寺として建立したもので、当初『瓶井坊』と称された。瓶井とは湧水がちょうど瓶に水を湛えたように満ちていたところから付けられたものである。
その後、元禄9年(1696年)の春、鈴木長頼は亡父長常を瓶井坊に葬り、その菩提を弔うため坊を修復したのである。以来瓶井坊は鈴木(れいぼく)院とよばれるようになった。
長頼は当時弘法寺の17世日貞上人と図り万葉集に歌われた『真間の井』、『真間の娘子(手児奈)の墓』、『継橋』の所在を後世に継承するため、それぞれの地に銘文を刻んだ碑を建てた。本寺の入口にあるのがその時の真間之位の碑である。
長頼没後、鈴木家は衰え鈴木院の名称も、また亀井坊と改められた。これは井のそばに霊亀が現れたからといわれている。
北原白秋が亀井院で生活したのは、大正5年5月中旬からひと月半にわたってのことである。それは彼の生涯で最も生活の困窮した時代であった。
『米櫃に米の幽かに音するは 白玉のごと果敢なかりけり』
この歌は当時の生活を如実に表現している。こうした中にあって真間の井に関しては次の一首を残している。
『蕗の葉に亀井の水のあふるれば 蛙啼くなりかつしかの真間』
その後、江戸川を渡った小岩の川べりに建つ、離れを借りて暮したが、これを紫烟草舎とよんでいる。
(出典:境内案内板)

 

 

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白秋が暮らしてい頃はこのような姿をしていたようです。

今では面影すらありませんね。。

 

 

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境内には、白秋が真間を歌った歌碑があります。

「蛍飛ぶ真間の小川の夕闇に蝦すくふ子か水音立つるは」

 

 

 真間の井

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白秋が暮らした地を覗きに来たのですが、ここにはもうひとつの見所がありました。

『真間の井』

以前ご紹介した、万葉集にも歌われる美女、手児奈伝説にまつわる井戸でした。

手児奈が水を汲んだという伝えがあるそうです。

 

亀井院は手児奈霊神堂の向いにあるのですが、

前回訪れた時にはまったく気づきませんでした。。。

 

(手児奈伝説についてはコチラ↓)

www.mi-cha34.com
www.mi-cha34.com

 

ちなみに亀井院は、かつて弘法寺の子院だったとのことです。

 

 

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真間の井は現存するとのことで、見に行ってみることに。

御堂の脇の扉をくぐり、小さな中庭へ向かいます。

 

 

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庭には大きな池がありました。

 

 

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あ!カメだ!!

石のカメをお母さんと間違えているのでしょうか?

背中に上がろうとしています。

 

井戸には霊亀が現れるとの言われがあるそうなので、

このカメはもしかすると・・・もしかするかもしれません。笑

 

 

 

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池を横目に奥へ進んで行くと、井戸が現れました。

 

 

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これが手児奈が使っていたと言われている、真間の井です。

バケツが置いてあり今にも誰かが水を汲みに来そうな雰囲気ですが、

現在は使用されていません。

 

手児奈の時代は、きれいな湧水を汲みにたくさんの人が集まっていたと言います。

当時はこの辺りまで海が入り込んでいたため、

ほとんどの井戸の水は塩気でとても飲めたものではなく、

生活用水として使えた井戸は真間の井ただひとつだったそうです。

 

 

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井戸のそばには真間の井が歌われた、万葉歌碑が置かれています。

「勝鹿の真間の井を見れば立ち平し 水汲ましけむ手児奈し思ほゆ」

 

* * *

 

北原白秋ゆかりの地』という目的で訪れた亀井院でしたが、

ここで再び手児奈伝説に触れることになるとは思いませんでした。

どちらかというと、手児奈伝説の方が興味が大きいのでラッキーでしたね。

 

 

 

 

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【亀井院】
所在地:千葉県市川市真間4-4-9
アクセス:京成本線国府台駅」より徒歩10分
御朱印:無
駐車場:不明
(※2020年10月24日付けの情報です。)

妙楽寺(埼玉県蓮田市) ~映画『あの日のオルガン』の舞台を訪ねる旅 1/2~

【2020/12/13 ぶら旅コース】
妙楽寺高虫氷川神社

2020年の書きこぼし旅

お出かけができず新規のネタがないので、

「2020年、行ってはいたけど記事にしていなかった書きこぼし旅」

をつらつらと綴って行こうと思います。

パソコンの調子が悪かったり、忙しかったりで書けずに時が過ぎてしまった旅です。

こういった旅がいくつかあって・・・ブログ的にはとてももったいないですよね。

ということで、この機会にご紹介させてもらいます。

 

今回は、去年の12月、映画の舞台となったお寺を訪ねた時のお話です。

 

 

映画『あの日のオルガン』


映画『あの日のオルガン』予告編

戸田恵梨香さん・大原櫻子さん主演の『あの日のオルガン』を観ました。

太平洋戦争末期、日本初の試みであった『疎開保育園』で奮闘する保育士と、

53人の園児たちの様子を描いた実話です。

 

この映画は、今まで観てきた戦争映画とは少し違ったタイプの作品でした。

疎開先での生活を中心に描いているので空襲の直接的なシーンは少なく、

保育士・園児・親・疎開先の村人・・・登場人物の交流や心情を通して、

戦争の悲惨さが表現されています。

これが結構じわじわと、観ている者の心をえぐってくるんですよね、、号泣でした。

大原櫻子さん演じる『みっちゃん先生』の天真爛漫なキャラクターのせいか、

戦争映画でありながらもどこかほのぼのとした印象が残る不思議な作品です。

 

* * *

 

都内保育園の園児たちの疎開先は、南埼玉郡平野村のオンボロ寺『妙楽寺

南埼玉群平野村とは現在の埼玉県蓮田市です。

なんと、私の地元でした。

それを知り映画を観たわけですが、そのオンボロ寺も残っているとのことで、

訪ねてみることにしました。

 

 

妙楽寺

  門

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映画の舞台となった、妙楽寺

保育士と園児たちは桶川駅から歩いてこのお寺へ向かいます。

桶川駅からここまで5㎞の道。

大人の足なら1時間ちょっとで行ける距離ですが、

53人の園児を連れて歩くにはとても遠く感じたことでしょう。

 

蓮田市では実際に桶川から妙楽寺まで歩くイベントがあったようです。

「私も歩いてみようかな?」と思ったのですが、車で行きました・・。

 

 

  日本初 疎開保育園開設の地

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参道入口には、疎開保育園について書かれた案内板と石碑がありました。

 

 

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「1944年(昭和19年)11月25日、太平洋戦争末期に空襲を避けるため、東京の戸越保育所(現品川区)、愛育隣保館(現墨田区)の3歳から6歳の園児53人が若き保母たちに連れられて、南埼玉郡平野村(現蓮田市大字高虫)に集団疎開し、日本で初めての疎開保育園がここ妙楽寺で始まりました。

11人の保母たちは、終戦を迎えるまでの1年近く、幾多の困難を乗り越え、保育への理念や希望を失うことなく、明るくひたむきに園児たちの命を守り抜きました。

疎開保育園を運営した恩賜財団大日本母子愛育会(現社会福祉法人恩賜財団母子愛育会)は、財政支援と園児たちの健康管理に奮闘するとともに、村人たちとの交流に奔走しました。

村人たちも、これに応えて、食料不足の厳しい環境の中、村を挙げて園児たちの食料確保に取り組み、この疎開保育園を支えました。

戦後、その保母たちは各方面で活躍し、保育の基礎を築き、その思いは後進に脈々と引き継がれ今日に至っています。

この実話が2018年(平成30年)、映画「あの日のオルガン」として映画化され、多くの人々に感動を与え、全国各地で上映会が行われました。

私たちはこの実話を永く語り継ぐとともに、命の大切さや平和の尊さを伝えていきます。」

 

 

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案内板には実際の写真。

とても微笑ましい写真ですが、

保育士たちの苦悩やこの年で親元を離れた子どもたちの気持ちを考えると、

とても切なく見えてしまいます。。。

 

ちなみに、この保育士と園児たちは現在も交流があるそうです。

 

 

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『日本初 疎開保育園開設の地』石碑。

 

これらが設置されたのは2020年、映画公開後になります。

「日本初」とはだいぶ歴史的なことではないかと思うのですが、

そう騒ぎ始めたのは映画の影響がかなり大きいように感じます。

というのも、今まで疎開保育園の話なんて聞いたこともなかったので・・・。

こうした蓮田の歴史が注目されるようになり、映画様様ですね。

 

 

  参道

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お堂へ続く参道。

 

 

  門

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参道を進むとお寺が見えてきました。

 

 

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赤い門をくぐり、境内に入ります。

 

 

  本堂

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【御本尊】
薬師如来(やくしにょらい)

【宗派】
真言宗智山派

【御由緒】
不明

案内板がなかったので創建年数等は不明ですが、とある霊園のHPにて

  • 御本尊が薬師如来様である
  • 御本尊は寅年に御開帳される
  • 御前立に不動明王様がいらっしゃる

という情報を知りました。

 

映画の中でも祭壇に仏像がチラチラと移りましたが、

形で創造するに不動明王様だったような気がします。

そこまで、忠実に描いているかはわかりませんが。。

 

 

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映画では窓もないほどオンボロだった本堂も昭和50年に修復されていました。

 

 

  耳だれ観音堂

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境内には、耳だれ観音堂

「供えてある水(酒が腐ったもの)を竹筒で持ち帰り耳に付けると治る」

という言われがあるそうです。

 

 

  大銀杏

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耳だれ観音堂の横に立つ、大銀杏も見物です。

 

 

  見送り桜

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面会に来た親たちとの別れの際、園児を枝に乗せて見送らせたという桜の木。

案内がなくハッキリとはわからないのですが、

あるとしたら多分この木ではないかなと思われます。

横に伸びた枝に子どもを乗せている様子が、なんとなく目に浮かびますよね。

 

昭和20年8月15日。

53人の園児たちは、ひとりも欠けることなく終戦を迎えました。

終戦日前日、空襲は熊谷まで来ていたそうです。

(熊谷空襲:埼玉県内最大規模・太平洋戦争最後の空襲)

 

* * *

 

おうち時間が長い今、『あの日のオルガン』はおすすめの映画です。

実話映画は実際にその舞台の地へ行けるのもいいところ。

今回は戦争映画だったので、シーンを思い出しては胸が締め付けられる思いでした。

 

 

 

 

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【薬王山 妙楽寺
所在地:埼玉県蓮田市高虫388
アクセス:JR「蓮田駅」よりバス「高虫」下車徒歩5分
御朱印:無
駐車場:有
(※2020年12月13日付けの情報です。)

清水観音堂(東京都台東区) ~上野公園の寺社をめぐる旅 9/9~

【2020/11/07 ぶら旅コース】
寛永寺開山堂(両大師)/輪王寺 上野東照宮東照宮第一売店上野大仏花園稲荷神社五條天神社不忍池辯天堂水観音堂
【コースMAP:鶯谷駅~上野駅(※実際の徒歩ルートと異なることがあります)】

 清水観音堂

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上野公園の寺社をめぐる旅、いよいよ最後のお寺になりました。

ラストを飾るのは、清水観音堂です。

 

以前も江戸三十三観音で記事を書きましたが、改めてご紹介します。
www.mi-cha34.com

 

 

 外観

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水観音堂は、不忍池辯天堂の正面に鎮座しています。

 

寛永寺は、延暦寺や琵琶湖などを模して建てられていましたが、

こちらもとあるお寺がモデルとなっています。 

名前からピンと来る通り、京都の清水寺です。

 

 

 本堂

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【御本尊】
千手観世音菩薩(せんじゅかんぜおんぼさつ)

【御由緒】
水観音堂は、寛永8年(1631年)に天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正(1536~1643年)によって建立されました。
天海大僧正寛永2年(1625年)に、二代将軍徳川秀忠公から寄進された上野の山に、平安京比叡山の関係にならって「東叡山寛永寺」を開きました。これは、比叡山京都御所の鬼門(艮=東北)を守るという思想をそのまま江戸に導入することを意味し、江戸城の鬼門の守りを意図したのです。そして比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と建立しましたが、清水観音堂は京都の清水寺(きよみずでら)を見立てたお堂です。
水観音堂は、京都の清水寺の義乗院春海上人から、同寺安置の千手観世音菩薩天海大僧正に奉納されたことにちなみ、清水寺と同じ舞台作りで、初めは上野公園内の「擂鉢(すりばち)山」に建てられました。しかし元禄初期、今の噴水広場の地に、寛永寺総本堂の根本中堂建設が決まると、その工事に伴って元禄7年(1694年)9月に現在地に移築されました。上野の山に現存する、創建年時の明確な最古の建造物です。
平成2年12月から文化財保存修理が行われ、平成8年(1996年)10月に竣工、元禄移築時の面影を再現するに至る、国指定重要文化財です。
(出典:公式サイト

堂内(撮影禁止)に掛かる上野戦争を描いた絵馬には、

当時使われた砲弾も一緒に見ることができます。

 

 

 清水の舞台

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清水の舞台も設置されています。

京都の清水寺は、中学校の修学旅行で行ったきりですかね・・・

本家に比べると、かなりミニチュアです。

 

 

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本家は12mの高さがあるそうですが、こちらは手前の石灯籠より低いです。

「清水の舞台から飛び降りる」という言葉がありますが、

東京の舞台ならそこまでの覚悟はいらないかもしれません。。

 

 

 月の松

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舞台からは、クルッと丸まった松の木が鑑賞できます。

 

 

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外から見た様子。

 

 

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この松は『月の松』と呼ばれ、

江戸時代の浮世絵師歌川広重の『名所江戸百景』において、

『上野清水堂不忍ノ池』『上野山内月のまつ』として描かれた松を、

平成24年12月に復元したものです。

(上の看板は、『上野清水堂不忍ノ池』)

 

 

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月の中から、不忍池辯天堂が見えました。

 

 

 擂鉢山

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もともと清水観音堂があったとされる擂鉢山も、上野公園内に残っています。

弥生式土器や埴輪の破片などが出土したことから、

古墳だったのではないかと考えられているそうです。

 

 

御朱印

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上野公園内の寺社、最後の御朱印です。

 

 

上野戦争

 彰義隊の墓

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15代将軍徳川慶喜の一橋藩主時代の側近家来であった小川興郷らは、慶応4年(1868年)、大政奉還をして上野寛永寺に蟄居した慶喜の助命嘆願のために同志をつのった。そこには徳川政権を支持する各藩士をはじめ、新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々が集まり、「彰義隊」と名乗り、やがて上野の山を拠点として新政府軍と対峙した。旧暦5月15日の上野戦争は、武力に勝る新政府軍が半日で彰義隊を壊滅させた。
生き残った小川ら隊士は、明治7年(1874年)にようやく新政府の許可を得て、激戦地であり隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦死の墓を建立した。なお、遺骨の一部は南千住円通寺内に合葬されている。以後120年余りに渡り、小川一族によって墓所が守られてきた。現在、歴史的記念碑としてその管理は東京都に移されている。
(出典:案内板)

今回のぶら旅の中で、ちょいちょい出てきたワード『上野戦争

上野戦争とは戊辰戦争の中の戦いのひとつで、

彰義隊旧幕府軍と、薩摩藩長州藩を中心とした新政府軍の戦いです。

西郷像の近くには、彰義隊の墓が建っています。

西郷像がある辺りは、当時、薩摩軍が戦った場所だと何かで聞いたことがあります。

 

 

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西郷さんにさよならをして、今回のぶら旅はおしまいです。

 

 

旅の終わりに・・・

【ぶら旅メモ】
交通費:1300円
参拝費:4650円
飲食代:490円
合計:6440円
歩数:16800歩

上野公園内の寺社を巡りました。

園内のみと言っても、かなりのボリュームだと思います。

御朱印はいただいていないものもあるので、

ここでご紹介した御朱印+2~3枚でコンプリートと言ったところでしょうか。

以前訪れた時は、ほとんどの寺社で直書きしてくださったのですが、

今回はほぼ書置きタイプになっていました。

そして、300円だった初穂料も500円に!!

時間とお財布に余裕がある時におすすめしたいスポットです。

 

 

 

 

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【清水観音堂】
所在地:東京都台東区上野公園1-29
アクセス:JR「上野駅」より徒歩4分
御朱印:有
オリジナル御朱印帳:有
駐車場:無
公式サイト:http://kiyomizu.kaneiji.jp/
(※2020年11月7日付けの情報です。)