関東ぶらりん旅

神社仏閣、B級スポット、ご当地グルメを楽しむ旅(散歩)

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小田原城/小田原城址公園(神奈川県小田原市) ~幸せの四社巡り 9/11~

【2022/06/11 ぶら旅コース】
KOUJI SANDWITCH櫻木神社愛宕神社(平成30年参拝) → 大宮氷川神社

【2022/06/25 ぶら旅コース】
東京大神宮不二家

【2022/07/09 ぶら旅コース】
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小田原駅周辺

小田原駅周辺はおみやげ屋さんやレストランが入ったビルが、昔の城下町のように造られており、まるでタイムスリップしたかのようでした。

 

 

ローソンも和風!

 

 

道にはやる気のなさそうな大名行列のタイルが続き、それを追っていくと小田原城址公園にたどり着くことができます。
城に近づくにつれて急な坂道になるあたり、「城に来たな~」と感じさせられます。

 

 

小田原城時公園

 正面入り口

きんじろうカフェでまったりした後、小田原城へ行きました。
報徳二宮神社小田原城の二の丸に鎮座しているので、神社からすぐ本丸に入れるのですが、正面入り口までぐるっと回り正規登場ルートをたどることにしました。

 

 

馬出門

馬出門から、城内に入ります。
この門は二の丸を守る重要な門。

 

 

中は四角くなっていて、城内へ続くもうひとつの門が90°に設置されていました。

 

 

 馬屋曲輪

門を抜けると、馬屋曲輪に出ます。
土塁に囲まれたこの場所には、馬小屋や大腰掛(番所)、櫓などがあったそうです。

 

 

土塁にかかる階段は、鳥の雁が並んで飛んでいる姿に似ていることから「雁木(がんぎ)」と呼ばれ、まっすぐではなく少し斜めにかけられていました。
斜めがけの階段は珍しいとのことですが、なぜ斜めなのかという理由は書かれておらず、効果は不明。
急斜面では段数が取れないため、登りやすいように斜めにしたのではないかと勝手に解釈してみたのですが・・・真相はいかに???

 

 

馬屋曲輪の隅には、二重櫓跡。

 

 

登ってみると、休憩スペースになっていました。

 

 

 銅門

住吉橋を渡り堀を越えると、

 

 

本丸に通じる銅門(あかがねもん)が立ちはだかります。
扉の飾り金具に銅が用いられたことがその名前の由来だそうです。

 

 

壁には矢や鉄砲を撃つための狭間。

 

 

門の真上を見上げると、石落としがありました。
後でガイドさんからお話を伺ったのですが、ここから落とされるのは石だけではなく熱湯を浴びせることもあったそうです。
ここを抜けられると本丸に侵入されてしまいますからね。
今までは土塁や堀で侵入を防いでいた仕掛けが、この辺りから反撃する形に変っているのがおもしろいです。

 

 

この日は銅門の公開日(土日祝)だったので、入ってみることにしました。
中はただの板張りの部屋でしたが、当時は敵の攻撃に備えて武器などが置いてあったのかもしれません。

 

 

窓からは馬出門が見えました。
敵の動きが見渡せる造りになっていると、ガイドさんが説明してくださいました。

 

 

部屋の奥には、氏照・氏直・氏政の北条氏のお三方。
小田原評定の様子が再現されています。

 

園内には銅門の土壁の模型があり、江戸時代の工法が紹介されていました。

 

 常盤木門

本丸の正門、常盤木門。
小田原城の城門の中でも最も堅固に造られた門です。

 

 

常盤木門の中は、SAMURAI館というちょっとした資料館になっています。
刀剣や甲冑などが展示されており、プロジェクションマッピングの上映も行われています。
このプロジェクションマッピングがとてもきれいで。
1体の甲冑をセンターに繰り広げられる映像の美しさと迫力に見入ってしまいました。甲冑・打掛・忍者など衣装を着付けしてもらえるサービスもあり、忍者になってみたかったのですが、ひとりなので諦めました・・・泣

 

 

 天守

そして、ついに来ました、天守閣。

 

 

小田原城
小田原城は、15世紀中頃に大森氏が築いた城を前身とし、北条早雲(伊勢宗瑞)に始まる小田原城北条氏の本拠となって以降、関東支配の拠点として整備されました。そして、豊臣秀吉との小田原合戦を前に周囲9㎞に及ぶ総構を構築し、日本最大級の城郭となりました。
北条氏滅亡後には、徳川家康の家臣である大久保氏が城主となります。小田原城は、北条氏時代の姿を継承しつつも、改修されながら用いられていきますが、大久保氏の改易により破却されることとなりました。その後、稲葉氏が城主となりますが、寛永10年(1633年)の地震により、城と城下は壊滅的な被害をうけます。そのため、稲葉氏は小田原城を大規模に改修し、小田原城は現在見られるような近世城郭としての姿に生まれ変わりました。
明治維新を迎えると、明治3年(1870年)に小田原城は廃城となり、建物は解体・売却されます。城址陸軍省の管轄を経て御用邸として用いられることとなりますが、大正12年(1923年)関東大震災を期に神奈川県・小田原町小田原市)へと払下げられることになります。
現在、小田原城の本丸・二の丸一帯に相当する城址公園は国指定史跡・都市公園に指定されており、往時の姿を取り戻すよう、史跡整備が進められています。
(出典:パンフレット) 

現在の城郭は、昭和から平成にかけて復元されたものです。
戦国の世も終わった江戸時代の姿を再現しているので、狭間や石落としは見られるものの、平和な時代であったとのことです。

 

 

黒い屋根と白い壁のコントラストがかっこいいではありませんか。
中は博物館になっており、戦国時代~江戸時代の小田原城の歴史、甲冑や刀剣などの展示、小田原城クイズのパネルなど、大人から子供まで楽しめるような展示でした。

 

 

最上階の展望デッキからの眺め。
遠くに海が見えました。
私は海なし県に住んでいるので、海を見るととてもわくわくするのですが・・・
それより何より高い所が苦手なので、ほぼ城の壁を観ながらデッキを1周しました。
内部には江戸時代に天守に祀られていた摩利支天像の祭壇も再現されています。

 

 

その他園内

 小田原城NINJA館

二の丸にある、NINJA館。
北条氏に仕えた忍者、風魔小太郎をテーマにした施設です。
私の日本史の教科書『戦国無双』というゲームに登場するキャラクターでもあります。
忍者に関する資料館かと思い、小田原城の中でも1番楽しみにしていた場所だったのですが・・・忍者体験ができるアトラクション施設でした。
入ってみたものの1人ではしゃぐこともできず、子どもたちがきゃっきゃしながら遊ぶ様子を見て、施設を出ました。。。

 

 

 遊園地・猿山

報徳二宮神社のすぐ近くには、モーターカーや汽車に乗れる遊園地。

 

 

天守閣の前にはお猿さんがいました。

 

 

 本丸茶屋

疲れたら本丸茶屋で食事や甘味で一休み。

 

 

 蓮池弁財天

ガイドブックには載っていなかったのですが、弁財天曲輪や弁財天通りという道があったので「どこかに弁天様がいるんだろうな~」と思い検索してみると、蓮池弁財天があることがわかりました。
グーグルマップで確認しながら何とか見つけることができたのですが、とてもわかりずらい場所にあり探すのに少々手こずりました。

 

 

弁天様がいらっしゃる場所は、駅から1番近い北入口から入ってすぐの細い道を入ります。

 

 

「この道、入っていいのかしら?」と心配しつつも先を進むと、

 

 

茂みの中に蓮池弁財天の案内板を見つけました。

 

 

さらに奥へ進んで行くと、鳥居が見えました。
駅から小田原城へ行く途中に高校があるのですが、その真裏に位置しているようです。
鳥居の正面には、高校のグラウンドが見えました。

 

 

【御由緒】
大永2年(1522年)蓮上院十三世住職亮海の勧めにより、北條氏康が江之島の辨財天を武運と住民の繁栄を願って此の地に勧請したのが起こりである。
辨財天は、須佐之男命の女神、多紀理比亮、市寸島比亮、田寸津比亮の三女神を役小角修験道創始者)が印度の女神辨財天の魂と霊覺し以後神佛習合の神、恐敲を滅ぼし、福徳宝を授ける神として信仰されている。
江之島の辨財天は、源頼朝が武運の神として信仰し、北條時政は、参籠して奇瑞を豪り、竜の三鱗を授けられ家紋となし、小田原北條も三鱗を家紋となし辨財天を信仰した。
連上院の口伝によれば、北條氏の要請により、天守に安置された辨財天の祈祷を毎月続けて来たが、徳川の世となるにおよび大久保家により祭典が執行され、明治維新以後は、護持者を失い、奇持者により数度うつり変わり、昭和28年石碑に記載された人々により、此の地に安置された。
(出典:案内板) 

弁天様は森の中でひっそりと、琵琶を奏でていました。

 

気付かず素通りしてしまう人が多いのか、人が誰もおらずちょっと怖かったのですが、、、高校から飛んで来たであろう野球のボールを見てちょっとほっこり。
弁天様もここから高校生たちを見守っているかのようです。

 

 

御城印

戦国時代ver.

北条氏の家紋が入っています。

 

 

江戸時代ver.

天守に祀られた摩利支天の名が書かれています。

 

 

 季節限定ver.

紫陽花が描かれた御城印。

 

 

そういえば、常盤木門にかかる橋から、紫陽花が見えました。
もう少しで菖蒲の花も咲きそうです。

 

 

関連記事

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現在の小田原城は江戸時代の姿を再現したものですが、歴史的にもっとも有名なのは北条氏時代の小田原征伐ではないでしょうか。
そのきっかけとなった、名胡桃城事件。
過去にそのお城にも行っているので、リンクを貼っておきます。

この流れで次回のぶら旅シリーズは、小田原征伐で唯一落ちなかった支城『忍城』について書いて行こうと思います。
いろいろな場所をぶらぶらしているうちに、こうして歴史が繋がることが多くなってきました。
こういう瞬間が、なんだか嬉しい今日この頃です。

 

 

 

 

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報徳二宮神社
所在地:神奈川県小田原市城内6-1
アクセス:JR「小田原駅」より徒歩10分
開館:9:00~17:00
休館日:12月第2水曜日、12月31日~1月1日
入館料:510円(天守閣のみ)、610円(天守閣+SAMURAI館)、200円(SAMURAI館のみ)、310円(NINJA館)
御城印:有
オリジナル御城印帳:有
駐車場:無
公式サイト:https://odawaracastle.com/
(※2022年7月9日時点の情報です。)

唐沢山神社/唐沢山城跡(栃木県佐野市) ~謎の石からはじまった旅 2/8~

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唐沢山神社/唐沢山城跡

 鳥居

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埼玉県羽生市の避来矢神社を参拝してから数か月後の11月。

栃木県佐野市の唐沢山神社を参拝しました。

 

 

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神社は唐沢山に鎮座しており、

そこにはかつて藤原秀郷が築いたとされる唐沢山城がありました。

佐野氏の居城であった唐沢山城は交通要衝の地であったため、

城をめぐる戦いが幾度となく繰り広げられたと言います。

現在は県立自然公園として整備・管理されていますが、

当時の城の名残も存分に感じられるようになっています。

 

 

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入口手前まで車で登ることができますが、

登山・ハイキングをメインとしたルートもあります。

私はもちろん車です。

 

 

 佐藤さんのふるさと

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駐車場に着き車を降りると、佐藤さんを歓迎する幟が立っていました。

佐藤さんが集まった団体客でも来ているのかと思いきや、、、

佐野市は『佐藤』という苗字の発祥の地なのだそうです。

野の原氏」がその名の由来なのだとか・・・知らなかった~!

なんとなく、自分が佐藤でないことを悔やみました。。

 

 

【唐沢山城】
唐沢山城は、佐野市の北、高さ240メートルの山全体をいい、往時の広さ550町歩と云われ、周囲を急崖にかこまれ、眺望は関東平野を一望に、遠く北より日光連山、西に群馬連山、秩父南アルプス、秀峰富士、東につくばと、まことに自然の要塞である。
当社御祭神、秀郷公により1000年前延長年間築城とされ、公はこの城を中心に、天慶の乱を鎮定し大功をたてられ、この功により鎮守府将軍として、関東はもとより奥州方面にまで威勢を張られた。その700年間多少の変遷はあったが、公の子孫佐野家代々の居城として16世紀中ごろに現在の形を整えたとされている。
関東7名城のひとつに数えられ、中世山城の典型としての旧態をよく今に残し、代々の変遷の跡も見られ近世初期にまで下る整備の跡もうかがわれる。
江戸初期、山城禁止令により、佐野市の山城公園の地に城となって、唐沢山城の歴史が終わるが、明治になり唐沢山神社が建てられると全山境内地となり、県立自然公園にも指定され、四季おりおりの風景の中に、秀郷公以来の歴史が偲ばれる。
(出典:案内板)

 

 

くい違い虎口

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駐車場に面した入口から唐沢山城内へ。

城には敵の侵入を防ぐため、さまざまな仕掛けが施されています。

城門があった入口もくち違い虎口になっており、さっそく入城を阻まれました。

 

 

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クランク状にすることで敵が直線的に侵入できない仕組みになっています。

ダッシュで突撃しても、ここで確実にスピードダウンさせられるわけですね。

 

 

 天狗岩

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入口を入るとすぐ、天狗岩の案内。

 

 

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案内に誘われるまま階段を登って行くと、、、

 

 

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岩山が現れました。

この岩が天狗の鼻に見えることからこの名がついたそうですが、

どの角度から見るとそう見えるのか正直わかりませんでした・・・。

 

 

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展望スポットになっている天狗岩。

ここからの眺めが素晴らしいこと!

下には佐野の街並みが広がり、遠くには赤城山榛名山など山が連なります。

 

 

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富士山も見えました!

この眺望の良さから、物見櫓や大筒が置かれていたとされています。

 

 

大炊の井

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天狗岩を下りて先を進むと、池が見えてきました。

大炊(おおい)の井。

池だと思っていたものは、口径8m・深さ9mもの巨大井戸でした。

築城の際、厳島大明神に祈願しその霊夢により掘られた井戸は、

こんこんと水が湧き出て現在まで枯れたことがないそうです。

 

 

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井戸のそばには、龍神様が祀られていました。

 

神橋・四つ目堀

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井戸より先は、本丸・二の丸・三の丸エリアになります。

 

 

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その手前に架かる橋、神橋。

 

 

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橋の下は堀になっており、入口と本丸エリアを分断したような形になっています。

当時の堀はもっと深かく、この橋も使用しない時は取り外せる曳橋だったそうです。

 

 

大手道

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本丸・二の丸・三の丸に繋がる道。

ここからの眺めもよく、景色を楽しみながら歩きました。

紅葉も始まった頃で、赤く色づいた葉も美しかったです。

 

 

 さくらの馬場

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大手道の途中には、さくらの馬場。

武士が馬の訓練を行った場所とあるのですが、、、

この急斜面を駆け上がるのでしょうか?

この辺りは桜が多いことからこの名がついたそうです。

 

 

 南城・社務所

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大手道を進むと階段が出てきました。

 

 

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階段の上には南城。

蔵屋敷があった場所で、こちらの眺めも抜群です!

 

 

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城内はかなりの広さがあるので、

展望の良い場所で休憩しながら歩くと、とても気持ちがいいです。

 

 

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南城の手前には社務所

本丸・神社までもうすぐです!

 

 

本丸・本殿へ

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社務所横の階段を登り、

 

 

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神門を潜ると、唐沢山城本丸・唐沢山神社に到着です。

 

 

手水舎

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なみなみと水が張った手水鉢を見るのは久しぶり。

 

 

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かわいらしい龍の口から水が出ていました。

 

 

 社殿

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【御祭神】
藤原秀郷公(ふじわらのひでさとこう)
平安時代の武将、俵藤太とも呼ばれる。平将門の討伐(天慶の乱)等で功績を上げる。『百足退治伝説』が有名。

【御由緒】
唐沢山一帯は、佐野家改易後、彦根藩の御林山となり江戸時代を通して厳しく管理されていましたが、明治時代になると新政府の管轄下に置かれました。一方、佐野家は、幕末には表高3500石の旗本として存続していましたが、明治の始め、旧家臣に迎えられ故郷に戻りました。
明治13年、佐野郷・秋山林策ら佐野家ゆかりの人々は、戦国時代に佐野家の菩提寺だった本光寺に集います。そして、唐沢山の古城跡に秀郷公を祀る神社を創建することを決議しましたが、道のりは決して容易ではありませんでした。この念願を相談された大蔵卿佐野常民は、志に深く感動し、国や県への働きかけを同志と共に積極的に展開、ついに神社設立と広大な官有林払下げが許可されました。そして、明治16年10月、大祭を施行し神社創建が実現、さらに、23年11月には、別格官弊社に加列されました。
(出典:パンフレット)

社殿の周辺が唐沢山城の本丸で、奥御殿があったとされています。

 

 

 狛犬

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社殿の前に立つ狛犬は、私の背丈ほど大きく正面を向いていました。

 

 

 二の丸

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本丸から二の丸に行く予定でしたが、工事中のため入れませんでした。

二の丸には奥御殿直番の詰所があったとのことです。

 

 

高石垣

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神門を下り、本丸の真下の道から三の丸に向かいます。

本丸の側面はとても高い石垣になっていました。

長さ40m・高さ8mのド迫力な石垣。

この石垣は関東では珍しいもので、

佐野氏と豊臣秀吉が深い関係にあったことから、

西日本の技術の導入によって築かれたものだそうです。

 

 

 三の丸

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三の丸へ続く階段を登ると、

 

 

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藤でしょうか?

一面グリーンの天井になっていました。

葉の隙間から差す日の光がキラキラしてとってもきれい。

 

 

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三の丸は賓客の応接間があったとされています。

この日のお客様は、遠足で来ていた幼稚園の子どもたち。

ここでお弁当を食べるようで、先生がシートを敷いたりと準備をしていました。

 

 

帯曲輪

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本丸から少し戻った、三の丸・四つ目堀の間。

急な切岸と土塁が残るこの地形は、

本丸側における最前線の防御拠点だったとされています。

 

 

 金の丸

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本丸の周りをぐるりと回り、入口とは逆の方向に進みます。

本丸を過ぎると急に寂し気な雰囲気に、、、人も見かけなくなりました。

・・・ちょっと怖い。

金の丸は、お宝蔵があったとされる場所。

現在は学習施設になっています。

 

 

 杉曲輪

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杉曲輪には、北側一部に土塁が残っています。

きれいに整地されているのは、以前宿泊研修施設があったため。

本丸より奥は観光というより、

研修や宿泊用のスペースとして使用していたようです。

 

 

 北城

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杉曲輪から北城へ続く道。

足場が悪かったので行くのをやめてしまいました。

北城では土塁が見られるそうです。

 

 

 車井戸

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北城で折り返し、まだ見ていないところに寄りつつ入口に戻ります。

とある井戸を探していたのですが、地図を見てもなかなか見つからず・・・。

舗装された道から脇に逸れた険しい(そんなでもない)山道に入ってみると、

やっとそれらしいものを見つけました。

 

 

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車井戸。

大炊の井に比べるとそれほどではありませんが、

それでも井戸にしてはかなりの大きさではないでしょうか。

この井戸は茶の湯に使用されていたとのこと。

深さ25mもあり「がんがん井戸」とも呼ばれ、

この井戸は竜宮(秀郷が避来矢を授かった場所)に続くと言われているそうです。

 

この道を突っ切ると、社務所に出ました。

社務所の脇にこんな道があったなんてまったく気づきませんでした。

城内はちょっとした迷路のような。

どこに続いているのかわからない脇道を時々見かけます。

 

 

 避来矢霊廟/避来矢山

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神橋まで戻り、大炊の井の裏手にある避来矢山を登りました。

 

 

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登ると言っても、階段ですけどね。

そして、そんなに高くない。。

 

 

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山頂には、霊廟が建っていました。

唐沢山神社創建以来、功績のあった方々をお祀りしているそうです。

 

 

西城

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避来矢山を下りて、大炊の井の向かいにある西城も覗きます。

中は庭園のようになっていて、きれいに切り込まれた樹々が立っていました。

 

 

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入口には『水琴窟』の案内が。

 

 

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その場所に行ってみると、手水鉢が置いてありました。

私は水琴窟を知らず「これは一体何をしたらいいんだ?」と、

考え込んでしまったのですが・・・どこからか聞こえてくる不思議な音。

耳を澄ませてみると、突き刺さった竹から「カランコロン」と鳴っていました。

あぁ!これは水が滴っている音だったんですね。

今まで聞いたことあるようなないような・・・

どこか遠い国の楽器にありそうな・・・

ずっと聞いていたい癒される音でした。

 

 

 足尾山神社

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入口を出て駐車場に戻ってきました。

まだ車には乗らず、もう少し歩きます。

レストハウスの脇にある階段を下ると、、、

 

 

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足腰健康の神様を祀る、足尾山神社があります。

目立たない場所にあるため、素通りしてしまいがち。

年配の方がこの神社のお守りを欲しがっていたのですが、

お守りは社務所まで行かなくてはなりません。

なので、先にお参りしておくことをおすすめします。

 

 

 鏡岩

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尾山神社から道をさらに下ると、車道に出ます。

その車道を渡ったところにあるのが、鏡岩。

上杉謙信が唐沢山城を攻めた時、

岩に西日が反射して攻め入ることが困難であったという言われがあります。

 

 

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この岩、実は巨大で。

昔はレストハウスの方まで岩があり、車道の部分は壁になっていたそうです。

 

* * *

 

と、こんな感じで唐沢山城をめぐりました。

滞在時間は2時間ほどだったでしょうか。

だいぶ歩きましたが、自然に囲まれ、景色も最高!!

心身ともにリフレッシュできる、とてもいい場所でした。

ここに来るきっかけとなった、避来矢神社の謎の石。

今となっては石の謎なんてどうでもよくて、

こんな素敵な場所に導いてくれたかと思うと感謝しかないです。

これからは「謎の石」ではなく「お導きの石」ですね。

 

 

猫城(おまけ)

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城内には無数(本当にたくさんいる!)の猫たちがお散歩していました。

耳が切れているのは、避妊手術をした印でしょうか。

ボランティアなのか、猫たちのお世話をされている方がいらっしゃるようです。

餌付けされているため、人によく懐いていてかわいいです。

なので、猫好きさんにもおすすめしたいスポットです。

しかし、レストハウスには『捨て猫防止』の貼紙が多くありました。

ひょっとするとこの子たちは、もともと飼い主がいたのかもしれません。

そう考えると、少し複雑な気持ちになりました・・・。

 

 

御朱印・御城印

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最後に御城印と御朱印を紹介します。

御城印・御朱印は、本殿手前の社務所にていただけます。

季節ごとにデザインがあるようで、

この日は紅葉や栗など秋を連想する絵柄が多かったです。

種類が多く、どれにしようか迷ってしまいました。

 

 

 御城印

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御城印はこの1種類のみ。

藤原氏の家紋が入っています。

 

 

 御朱印

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御朱印も藤原家の家紋バージョンにしました。

金・銀揚羽蝶が舞います。

 

 

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『透明御朱印』という変わり種御朱印を見つけたので、

そちらも1枚いただくことにしました。

 

 

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透明御朱印は、薄いプラバンのような素材に印刷されていました。

透かすと向こう側が薄っすら見えます。

なにこれ?すごい!

最近の御朱印の進化がものすごく、追いつけていないかもです・・・。

もはや、これを御朱印と呼んでいいのかもわかりません。。

 

 

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社務所の横のスペースで、透明御朱印展が催されていました。

春夏秋冬の唐沢山神社がデザインされた御朱印が並んでしました。

なるほど!

クリアなフォトフレームで飾るといいんですね!!

 

 

 

 

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【唐沢山神社/唐沢山城】
所在地:栃木県佐野市富士町1409
アクセス:東武佐野線田沼駅」より車10分、「佐野駅」より車20分
御朱印:有
御城印:有
オリジナル御朱印帳:有
駐車場:有
公式サイト:http://karasawayama.com/
(※2021年11月11日時点の情報です。)

松之大廊下跡・平川門/皇居東御苑(東京都千代田区) ~忠臣蔵ゆかりの地をめぐる旅 1/7~

【2021/12/14 ぶら旅コース】
皇居東御苑新正堂・浅野内匠頭終焉之地元禄二八蕎麦 玉屋吉良邸跡大川屋泉岳寺大石良雄外十六人忠烈の跡

 

忠臣蔵

去年の12月14日、

冬の風物詩『忠臣蔵』ゆかりの地をめぐって来ました。

忠臣蔵を巡るなら12月かな」と思うもなかなかタイミングが合わず、

時期にこだわってしまったばかりに計画から数年の時が経ってしまいました・・。

今年も予定していた日がことごとく潰れ、ふっと空いた14日。

ついに!やっと!何年か越しの忠臣蔵巡りに行けることになりました。

しかも、討ち入りの日に行けるとは!!!

 

* * *

 

忠臣蔵とは、江戸時代の『赤穂事件』を基にした演目で、

浄瑠璃・歌舞伎・演劇・映画・ドラマなど数多くの作品を残します。

赤穂藩浅野内匠頭高家旗本吉良上野介に斬りかかるという事件を起こし、

浅野は即日切腹、浅野家お取り潰しの刑に処されました。

喧嘩両成敗の制度があった中、吉良に対してはお咎めなし。

それを不服とした大石内蔵助をはじめとする浅野家家臣たちが吉良家に討ち入り、

仇討ちをするというお話です。

 

* * *

 

東京都内に点在する忠臣蔵スポット。

細かい所を含めると、それはそれは多く存在します。

さすがにすべて回ることはできないので、

大まかなストーリーがたどれるコースを作ってみました。

赤穂事件~大石内蔵助切腹までの舞台を時系列で進んで行きます。

雪のイメージの忠臣蔵ですが、旅当日はけっこう強めな雨。

びしょびしょになりながら都内を行ったり来たりで、

とにかく移動が大変な旅となりました。。

 

 

皇居東御苑

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今回の旅は、皇居(江戸城)からのスタートです。

 

 

 大手門

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皇居東御苑

江戸城の本丸・二の丸・三の丸にあたる部分が庭園になっており、

無料で一般開放されています。

入口がいくつかありそれぞれ最寄り駅があるのですが、

私は東京駅から向かったので、江戸城の正門にあたる大手門から入りました。

入口では3名の警備員に囲まれ、手荷物検査が行われます。

さらに検温、そして手を消毒している姿を見守られ、

OKが出るとやっと中に入れてもらえました。

 

 

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大手門の前にそびえ立つビル群。

 

 

 皇居東御苑

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苑内はかなりの広さがあり、江戸城の名残など見所もたくさん。

しかし、今回は時間がないので、目的地だけササッとめぐります。

 

 

松之大廊下跡

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大手門を入って西側にある、松之大廊下跡。

忠臣蔵の序章、ことの発端となる刃傷事件が起こった現場です。

ここで浅野内匠頭吉良上野介に斬りかかります。

 

【元禄14年3月14日 午前10時~11時頃】

この日江戸城では、朝廷からの使者をもてなす儀式が行われる予定でした。

勅使の接待役を浅野内匠頭典礼の指導役を吉良上野介が務めていましたが、

浅野は突如、吉良に向けて刀を振るいます。

「この間の遺恨、覚えたるか」とは浅野の有名なセリフ。

浅野がこの行動を起こしてしまった真意については不明だそうですが、

私が観たドラマでは吉良からのパワハラによるもののように描かれていました。

ついカッとなって・・・」といった感じでしょうか?

 

 

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現在は石碑と案内板が置いてあるのみ。

 

 

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両国にある江戸東京博物館では、松之大廊下の模型を見ることができます。

西へ19m、北へ31m、幅5m、畳敷き、江戸城で2番目に長い廊下だそうです。

 

 

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襖戸の絵柄からこの『松の廊下』と名付けられました。

 

 

 平川門

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松之大廊下跡から苑内を半周ほど回り、

江戸城の裏門にあたる平川門から城外に出ます。

 

 

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【元禄14年3月14日 午後3時頃】

事件から4~5時間後。

浅野は取り調べを受けた後、

幕府の裁定を待つため陸奥国一関藩主田村右京太夫の屋敷に預けられます。

浅野を乗せた籠は、平川門から出されました。

平川門は普段通用門として使われていましたが、別名「不浄門」とも呼ばれ、

城内で死人や罪人が出るとこの門から城外へ出すのだそうです。

この時はまだ裁きが下る前なのに、浅野は既に罪人扱いされているんですね・・。

 

* * *

 

駆け足状態で江戸城を回りました。

石垣や天守閣模型の展示など気になるものもあったのですが、

ただただ松之廊下跡と平川門だけを見て出てしまいました。

皇居のお堀を越えるのも初めての体験だったので、

もっとゆっくり見たかったのが本当のところでしたけどね、、とにかく時間が!

次回は江戸城をメインに、じっくりと見学したいと思います。

 

 

 

 

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皇居東御苑
所在地:東京都千代田千代田1-1
アクセス:JR「東京駅」より徒歩7分
開園時間:9:00~18:00(季節により変わります)
休園日:月・金曜日、12月28日~1月3日
駐車場:無
公式サイト:https://www.kunaicho.go.jp/event/higashigyoen/higashigyoen.html
(※2021年12月14日時点の情報です。)

国府台城(千葉県市川市)の御城印

国府台城

www.mi-cha34.com

千葉へお墓参りに行ったので、ついでに国府台城の御城印もGETしてきました。

  • 道の駅いちかわ
  • いちかわ観光物産インフォメーション

国府台城の御城印は上記にて、購入できます。

私は道の駅いちかわで購入しました。

 

 

御城印

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国府台城の御城印は、和紙ではなくポストカードタイプ。

値札にも『ハガキ』と書かれていました。

1枚300円です。

 

デザインは、足利義明の雄姿。

そして、2種類の家紋が上下に押されています。

上部は第一次国府台合戦で戦った『北条氏』と『足利氏』の家紋、

下部は第二次国府台合戦で戦った『里見氏』と『北条氏』の家紋で、

動乱の戦国時代をイメージしているそうです。

(三角の『三つ鱗』が北条氏、丸い『二つ引両』が足利氏と里見氏)

 

足利氏と里見氏は同じ家紋なんですね。

なぜ同じ紋をいくつも押すのか・・・と疑問でした。笑

もっと勉強せねば!!

 

 

 

 

売店

【道の駅 いちかわ】

所在地:千葉県市川市国分6-10-1

アクセス:JR「市川駅」京成線「京成市川真間駅北総線北国分駅」よりバス

「道の駅いちかわ」下車

営業時間:9:00~20:00

駐車場:有

公式サイト:https://www.michinoeki-ichikawa.jp/

※御城印コーナー無し。物産のレジで頼むと出してもらえます。

 

 

【いちかわ観光物産インフォメーション】

所在地:千葉県市川市八幡2-4-8

アクセス:JR「本八幡駅」京成線「京成八幡駅」より徒歩2分

営業時間:10:00~16:00

定休日:毎月第1月曜日(祝日の場合直後の平日)、年末年始

駐車場:無

市川市HP:https://www.city.ichikawa.lg.jp/cul02/1111000017.html

 

 

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国府台城跡/里見公園(千葉県市川市) ~国府台ぶらりん旅 1/5~

【2020/10/24 ぶら旅コース】
國府神社国府台城跡/里見公園国府台天満宮飛地天満宮亀井院 → 話飲茶屋 つぎはし
【コースMAP:国府台駅~国府台駅(※実際のルートと異なることがあります。)】

2020年の書きこぼし旅 その2

今回は去年の10月に行った、市川国府台めぐりについて書こうと思います。

毎年恒例としている『誕生日参拝』で、産土神社をお参りしました。

私の産土神社である國府神社は以前も記事にしているので割愛しますが、

他にも国府台地区の寺社などを巡っているのでそちらをご紹介したいと思います。

 

(國府神社の様子はこちら↓から。)

www.mi-cha34.com

 

 

里見公園

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国府台駅にほど近い國府神社を参拝後、矢切駅方面へひたすら歩き里見公園へ。

国府台城跡を見に行きました。

『里見公園』という名は、国府台城城主であった里見氏が由来となっています。

 

 

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とても大きなこの公園は、桜の名所として有名です。

桜以外にも四季折々の花が咲き、この日はバラとナデシコが満開。

公園中に甘い香りが漂っていました。

散歩はもちろん、夏はBBQも楽しめます。

 

そして何と言っても、歴史の詰まった公園でもありますね。

かつてこの場所には国府台城が建っており、現在も城跡やそれに関する史跡、

古墳などが数多く残されています。

 

 

国府台城跡

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国府台城】
「鎌倉大草紙」によれば、文明10年(1478年)に扇谷上杉氏の家宰太田道灌が「下総国国府台」に陣取り、仮の陣城をかまえたとあり、これが国府台城のはじまりであるとする説がある。道灌は武蔵にいた千葉自胤と戦うためにここに陣取り、境根原(柏市)に出陣し、自胤を破っている。
これより以前の康正2年(1456年)、千葉自胤は兄の実胤とともに「市川城」に立てこもり足利成氏方に抵抗していたが、簗田出羽守らにより城を落とされ、武蔵石浜(台東区)に逃れていた。この「市川城」と太田道灌の仮の陣城との関係が注目されるが、同じものなのかは不明である。
国府台は標高20~25メートルの下総台地の西のはしで、江戸川に並行して南へ張り出した大きな舌状の丘陵であり、現在の里見公園の中に土塁状の城郭遺構が現存している。そして公園の北に向かっても城郭の遺構らしきものが確認される。
公園内の遺構は破壊が激しく、築城の時期を想定することは難しいが、太田道灌の時代よりは後の時代に属する、とする推測もある。
この地は、その後天文と永禄の二度にわたり、小田原の戦国大名北条氏と安房の里見氏らにより行われた合戦、いわゆる国府台合戦の舞台となっている。
天文7年(1538年)の合戦は、北条氏綱小弓公方足利義明・里見義堯らが戦ったもので、小弓(千葉市)に拠を定めた義明と北条家が担ぐ本家筋の古河公方家との戦いである。これに対して永禄7年(1564年)の戦いは、着々と東国に覇権を確立せんとしていた北条氏康と、これに抵抗する里見義堯・義弘らの戦いであった(前年の永禄6年にも合戦があったとする説もある。)
永禄の合戦の結果、北条軍は圧勝し、里見方は盟友である正木氏の一族など多くの戦死者を出し安房に敗走する。現在の国府台城跡は、この合戦のなかで激突する両軍の争奪の場となり、戦後、北条氏の手により規模が拡大強化され、初期のものから戦国期の城郭に進化した、とする説もある。
現在の公園内には、江戸時代になって作られた里見軍の慰霊のための供養塔が建てられている。
この地はその後、里見八景園という遊園地の敷地となり、その後は陸軍軍用地となり、終戦を迎えている。
(出典:案内板)

公園に入るとすぐ、国府台城跡の碑が見えます。

近くには案内板。

この地は、北条氏と里見氏が2度にわたり戦った国府台合戦の戦地だったようです。

 

国府台城は「鴻之台城」「市川(河)城」の別名を持ちますが、

案内にもあるように市川城は別にあったのではないかという説があり、

現在の真間山弘法寺付近と考えられているそうです。

 

弘法寺の様子はこちら↓から。)

www.mi-cha34.com

 

 

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公園として整備されてはいますが、

園内を歩いていると石垣や土塁らしき地形を見ることができます。

 

 

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こんな標識を発見しました。

国府台城は市川市で一番高い場所にあったんですね。

  

 

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すぐ横を流れる江戸川の向こう側は東京都です。

展望台からは東京の街並み、スカイツリーも見えました。

近くには矢切の渡しがあり、寅さんでおなじみの柴又と繋がっています。

 

とても良い眺めですが・・・

国府台城は最終的に、徳川家康によって廃城させられてしまいます。

その理由は「江戸を見渡せるから」と言われているそうです。

 

 

 里見広次並びに里見軍将士亡霊の碑&夜泣き石

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先ほどの石垣を登ると、小さな石碑と大きな石がありました。

 

 

里見広次並びに里見軍将士亡霊の碑

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里見諸士群亡塚(左)、里見諸将霊墓(中)、里見広次公廟(右側)

 

北条軍に敗れた里見軍の戦死者5千名の慰霊碑です。

この慰霊碑(左・中)が建てられたのは文政12年(1829年)。

なんと、北条軍に敗れてから265年も後のことだそうです。

広次の霊廟は後に(年代不詳)、石井辰五郎という人物によって建てられています。

 

 

夜泣き石

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慰霊碑の近くには、大きな石。

なんとなく囲われていることから、ただの石ではなさそうです。

この石は『夜泣き石』と呼ばれ、とある伝説が残されていました。

 

「広次の末娘が父の霊を弔うため、安房の国から国府台の戦場へたどり着きました。

まだ12、3歳の姫は戦場の凄惨な情景を目にし恐怖と悲しみのあまり、

傍らにあった石にもたれ泣き続け、ついに息絶えてしまいます。

それからというもの、毎夜その石から悲しい泣き声が聞こえるようになりました。

里人はこの石を『夜泣き石』と呼ぶようになりましたが、

そこを通りかかったひとりの武士が哀れな姫の供養をしたところ、

泣き声が聞こえなくなったと言います。」

(出典:案内板から抜粋) 

 

なんとも悲しいお話でしたが・・・

案内板には「この伝説はただの伝説でしかない」とも記されていました。

広次が戦死したのは15歳のこと。

「12、3歳の娘がいるのはおかしい」ということなんですね。

この石が広次の慰霊碑の近くにあったことから、このような伝説が生まれたようです。

 

 

その他の史跡

 明戸古墳石棺

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太田道灌が陣を築くため盛土を取り除いた際に発見されたという明戸古墳。

 

 

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石棺が2基並んでいました。

古墳時代後期にこの辺りで勢力を振るっていた豪族の墓であろうとのことです。

大きさは150~160㎝くらいの人でギリギリといった感じでしょうか。

 

 

 羅漢の井

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弘法大師が発見したという伝説が残る、羅漢の井。

市川市一の高台ですから、井戸と言っても湧水のようです。

 国府台城の飲料水としても使われていたといいます。

 (現在は飲めません。)

 

 

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スタイリッシュに整備された井戸ですが、昔はこのような姿だったようです。

(羅漢の井は公園の外側にあります)

 

 

 紫烟草舎

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詩人 北原白秋が1年間過ごしたとされる家屋。

この家屋はもともと小岩にあり、解体後この地に移築したものだそうです。

中に入ることはできませんが、白秋が使用した机などが展示されているとのことで、

もしかすると、特別に公開する日があるのかもしれません。

 

 

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裏手には、白秋の歌碑がありました。

「華やかに さびしさ秋や 千町田の ほなみがすゑを 群雀立つ」

 

 

御城印(2021/07/23追記)

最後に国府台城の御城印をご紹介したいところでしたが、

御城印があることを知らず未入手です。

次回の産土神社参拝時にでもいただいてくる予定なので、また追記します。

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御城印を入手してきたので、追記します。

 

 

国府台城の御城印についての詳細はこちら↓↓↓

www.mi-cha34.com

 

 

 

 

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国府台城跡/里見公園】
所在地:千葉県市川市国府台3-9
アクセス:JR「市川駅」京成「国府台駅」よりバス「国府台病院」下車徒歩5分
御城印:有
駐車場:有
(※2020年10月24日付けの情報です。)

岩槻城(埼玉県さいたま市)の御城印・武将印・武将(?)印

岩槻城

www.mi-cha34.com

花見・犬の散歩・豆腐ラーメン・・・今まで何度も訪れた岩槻城址ですが、

なんと御城印があることをつい最近知りました!!!

どうやら、去年の11月から発売されているようです。

さっそく、GETしに行ってきました。

 

 

御城印・武将印・武将(?)印

御城印

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こちらが、岩槻城の御城印です。

昔は『』だったんですね。

背景には、岩槻城主である太田氏の家紋『鏑矢左前』の印。

太田氏の家紋というと桔梗紋が一般的に知られているそうなのですが、

岩付太田氏はこの家紋を使用していたとのことです。

 

 

 

 

 武将印

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御城印と並んで武将印もあったので、つい一緒に購入してしまいました。

「いろいろあるのね~」とお店の方。

本当にそうですね。。

 

武将印は、岩槻城城主太田資正

岩槻城を築城した、太田道灌の曾孫にあたります。

 

 

 武将(?)印

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そしてさらに、武将(?)印。

本当にこの名前で売られています。

武将・・・とは言えませんが、軍用犬として活躍した伝令犬です。

 

資正は大の犬好きで、城で多くの犬を飼っていたそうです。

それを戦にも活用。

松山城(埼玉県吉見町)への連絡手段として、犬に手紙を結び運ばせたと言います。

犬を使ったことで、敵に悟られなかったそうな。

岩槻から吉見まで結構な距離がありますけどね・・・どのように躾たのでしょう?

 

* * *

 

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公式サイトによると、この武将印2枚は今年2月中旬に発売されたばかり。

しかも『太田資正生誕500年記念』として、1000枚限定の武将印でした。

「つい買っちまった・・・」と一瞬思ったのですが、買っておいてよかったです。

買いに行ったタイミングもよかったですね。

2枚並べたら、岩槻城の古地図が浮かび上がってきました。

 

ちなみに、令和4年2月で資正生誕500年を迎えるにあたり、

岩槻区ではイベントを開催する予定だそうです。

 

 

 

 

売店

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御城印・武将印各種は、下記のお店で取り扱っています(2021/02/14現在)。

御城印:300円

武将印:各400円

 

 

【水野書店】

住所:埼玉県さいたま市岩槻区本町4-2-10

アクセス:東武野田線岩槻駅」より徒歩7分

営業時間:10:00~20:00

定休日:第2・第4日曜日

公式サイト:https://mizuno-bk.com/

 

 

【田中屋本店】

住所:埼玉県さいたま市岩槻区本町2-2-43

アクセス:東武野田線岩槻駅」より徒歩12分

営業時間:9:00~16:30

定休日:月・火(不定休)

備考:和菓子屋さんです

 

 

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静勝寺・稲付城跡(東京都北区) ~DEEPな街「赤羽」のDEEPな神仏をめぐる旅 6/7~

静勝寺

 山門

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亀ヶ池から出土された弁天像が安置されている、静勝寺にも寄ってみました。

亀ヶ池弁財天の例大祭は、こちらのご住職が導師を勤めています。

 

 

 境内

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大きな木々に覆われた、とても静かで落ち着いた雰囲気の境内。

風の通りもよく、夏なんかは涼しそうですね。

 

 

 本堂

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【御本尊】
釈迦如来(しゃかにょらい)

【宗派】
曹洞宗

【御由緒】
寺伝によると当寺はもともと道灌の築いた砦(稲付城とよばれる)の跡で、道灌の禅の師匠であった雲綱が、非業の死を遂げた名将の菩提を弔うためにこの地に草庵を結び、道灌寺と名付けたのが起源で、その年は永正元年(1504年)であったとされています。
しかし、稲付城は徳川家康が江戸に移った時(1590年)まで存在し、寺となったのはその後であり、それは、おそらく寛永年中(1633~42年頃)に稲付出身の僧麟的(~1642年)が草庵を結んだのがそのはじまりと思われます。
その後、道灌6世の孫太田資宗(1600~1680年)が先祖ゆかりの地を大事にして境内を整備し、幕府やこの地の領主東叡山寛永寺にとりなして、寺域を除地(免税地)とすることを認められました。その折、資宗は山号と寺号をそれぞれ道灌と父道真の号、静勝軒および自得軒の名をとって現在のように改めました。明暦元年(1655年)のことです。
その後、太田家では代々静勝寺を援助し、また、道灌の250回忌(享保20年、1735年)には家中を挙げて静勝寺で法要を営んでいます。その折々に記念の品を奉納したり、諸堂の建立や修復が行われました。その最大の記念物が太田道灌の像であり、それを祀る影堂(道灌堂)です。
寺は明治以降太田家との縁も切れて一時さびれましたが、昭和に入ってから付近の都市化とともに復興し、檀家もふえ、諸堂も整備されて今日に至っています。
なお、寺域一帯は現在、東京都旧跡の指定をうけております。
(出典:公式サイト

戸の隙間から中を伺うと、黄金に輝くお釈迦様が座っておられました。

両脇にはこれまた黄金の脇侍、文殊菩薩普賢菩薩のお姿も見えます。

 

なんとなく、そのお釈迦様から癒しオーラを感じて。

しばらく覗き見てしまいました。

 

 

 道灌堂

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太田道灌の座像が安置された、道灌堂。

北区の指定有形文化財に指定されるその像は、

道灌の命日である7月26日にちなんで、毎月26日に開扉されます。

 

静勝寺建立以前は、太田道灌が築いたとされる砦『稲付(いなつけ)城』でした。

(調査上、道灌の築城説が有力だが、決定付けるものはない)

この地は小高い山になっており、当時、亀ヶ池はお堀の役目をしていたんですね。

江戸城岩槻城を中継するための山城として築かれたそうです。

 

www.mi-cha34.com

 

 

 辨天堂

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そしてこちらが、亀ヶ池から出土された弁天像が安置されている、辨天堂です。

亀ヶ池弁財天に祀られた弁天様の元祖ですね。

 

お釈迦様のように戸の隙間から拝見できるかと覗いてみましたが、、、

戸の前に衝立があり弁天様のお姿を見ることができませんでした。

 

 

稲付城跡

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帰りは入った時の門とは別の門から出ました。

 

 

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階段を下りまっすぐ進むと赤羽駅になります、、、が、

下る前に階段の左側へ。

 

 

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稲付城の遺跡があります。

これが何の跡なかは、わかりませんが・・・遺跡だということです。

他にも、調査によって空堀が発掘されているそうです。

 

 

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こちら側の入り口には『稲付城跡』と刻まれた石柱がありました。

 

  

御朱印

静勝寺に御朱印はあるようですが、完全にもらい忘れてしまいました。

「あっ!御朱印!!」と気づいたのは、帰りの電車の中です。

・・・また行けばいいですね。

 

 

 

 

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【自得山 静勝寺・稲付城跡】
所在地:東京都北区赤羽西1-21-17
アクセス:「赤羽駅」より徒歩3分
御朱印:有
駐車場:有
公式サイト:http://joshoji1486.sakura.ne.jp/
(※2020年10月3日付けの情報です。)

小山城跡/城山公園&小山御殿広場(栃木県小山市) ~開運のまちめぐりと映画鑑賞の旅 2/4~

【2020/08/21 ぶら旅コース】
道の駅 思川小山城跡・小山御殿広場須賀神社シネマロブレ5

小山評定が行われた場所とは?

小山評定が行われた場所についての詳細はわからず、

「小山御殿ではないか?」

「小山城ではないか?」

「須加神社ではないか?」

などいろいろ言われているそうです。

挙がっている3カ所はそれぞれ近距離にあるので、この辺りではあるのでしょう。

とりあえず、その3カ所を訪ねてみました。

 

 

小山城跡 (城山公園)

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まず向かったのは、小山城。

別名、祇園城。

城の守護神として祇園社(現須加神社)を祀ったことから、

こう呼ばれるようになったそうです。

平安時代藤原秀郷が築いたとする伝承が残るそうですが、

正確な築城年代は不明とのこと。

現在は、城山公園として整備されています。

 

 

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思川に沿った丘陵を利用して築かれた小山城。

当初、小山氏の本拠が置かれていましたが、上杉氏や北条氏から攻略され陥落。

小山氏は追放されてしまいました。

後に北条氏も滅ぼされ、江戸幕府成立後本田正純が城主となります。

しかし、正純も宇都宮へ転封となり、小山城は廃城となりました。

 

* * *

 

簡単な案内板があったので、それと共に城内をご紹介します。

 

 

二ノ丸

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城素人の私には簡単すぎる案内で、

「ここが二ノ丸です!」としか言えないのですが、、ここが二ノ丸エリアです。

現在は公園なので、

このエリアだけではなく、全体的にお散歩に最適な道が整備されています。

 

 

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田村金作という方の像がありました。

この方は、城山公園の開園に携わった方のようです。

 

 

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像の奥の崖っぺりには、ビューポイント。

 

 

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このビューポイントは園内にいくつかあって、

足形に合わせて立つと絶景が眺められるといったものです。

私も足を合わせて、景色を眺めてみたのですが・・・

 

 

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木!!!

木が生い茂っていて、景色が何も見えませんでした。

まさか、この木を見せたかったわけじゃないですよね???

沼田城でもこんなことがあったような・・・デジャヴです。

 

www.mi-cha34.com

 

 

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別の場所から同じ方向を見てみました。

そこには、思川が流れていました。

大きな建物もなく、広々とした、とてもいい眺めです。

先ほどのビューポイントが見せたかったのは、この景色だったのでしょうね。

 

 

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先を進むと神社がありました。

中には3つの祠が祀られており、中央が稲荷神社です。

両側の2社は札の文字が読めず、どの神様が祀られているのかわかりませんでした。

お城があった頃から祀られていたのでしょうか???

廃城後、別荘として使われていたこともあるそうなので、屋敷神かもしれませんね。

とにかく古い祠でした。

 

 

本丸

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続いては、本丸エリアです。

 

 

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周辺は木々の間を歩ける散歩コースになっていました。

大きな木が多いので、影ができてちょっと涼しいです。

 

 

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戦争で亡くなった方のためでしょうか・・・?

慰霊塔がありました。

 

 

 祇園

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祇園橋を渡ります。

 

 

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橋の下は堀がありました。
橋の反対側は道に繋がっていたので、堀の中を歩けるかもしれません。

 

 

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祇園橋を渡ると広場に。

先に虫取り網を持った親子がいます。

セミでもつかまえたかな?

 

 

 本丸橋

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さらに本丸橋を渡ります。

本丸橋からだいぶ離れていますが、本丸橋です。

ここが、本丸と別の曲輪の堺なのでしょうか?

 

 

 虎口

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虎口跡エリア。

奥の盛り上がったところに虎口が確認されているようです。

 

 

 塚田曲輪跡

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レジャーシートを敷きたくなるような広場は、塚田曲輪エリア。

 

 

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ここでもビューポイントを発見。

目線の先には、大銀杏がありました。

 

 

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このイチョウには、

祇園城落城の際、古井戸に身を投げて亡くなった姫君の霊がイチョウに宿り、

実を結ぶことがない

という伝説が残っているそうです。

そのため、「実なしイチョウ」と呼ばれているそうです。

 

 

 上段曲輪跡

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最後のエリア、上段曲輪エリアです。

そこは、子供たちが遊べる遊具がありました。

 

 

 駐車場へ

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公園をぐるっと1周して、駐車場へ戻ります。

 

駐車場は、公園入口の反対側に位置します。

かなりわかり難い場所なので、

ナビ:目的地周辺です。運転お疲れさまでした。

からが迷いましたね。

私はその先が知りたいのだよ~!!!

 

 

小山評定跡石碑

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城山公園から徒歩2分の場所にある、小山評定石碑も見に行きました。

通りの名前も、小山評定通りです。

 

 

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小山市役所の敷地内、入り口すぐの場所に石碑はあります。

工事中でガードマンが立っていたので、

「写真だけ撮らせてください。」

と急いでシャッターを切り、足早に立ち去りました。

 

小山評定跡由来】
慶長5年(1600年)7月24日、徳川家康会津上杉景勝を討つべく小山へ到着しました。
このとき、石田三成が家康打倒の兵をあげたことを知り、翌25日、この地において軍議が開かれました。これが「小山評定」です。
軍議は三間四方の仮御殿を急造し、家康と秀忠を中心に、本田忠勝、本田正信、井伊直正や福島正則山内一豊黒田長政浅野幸長細川忠興加藤嘉明蜂須賀至鎮らの諸将が参集しました。福島正則が協力を誓い、これをきっかけに軍議は家康の期待どおりに決まりました。
同年9月15日、関ケ原の戦いがおこなわれ、東軍(徳川方)の勝利にむすびついた歴史上重要な所です。
(出典:小山評定跡石碑)

 

 

小山御殿広場

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市役所の隣には、御殿広場があります。

小山御殿が建っていた跡地です。

現在はだだっ広い広場になっていて、イベント会場等で使われているそうです。

 

 

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小山御殿復元図。

小山評定の際に作られた御殿跡かと思っていたのですが、

この御殿が作られたのは家康の死後で、

徳川将軍家の日光社参の際の休憩・宿泊所として造られた御殿でした。

この御殿は台風で一部崩壊したことを機に、古河藩によって解体されたそうです。

 

* * *

 

小山評定の現場だと想定される3カ所のうち、2カ所を訪ねました。

何度も言いますが、私は城素人です。

曲輪、曲輪と言われても、あれだけの案内板では何がなんだかわかりません!

市役所へ行った際、小山城に関する資料はないかと、

併設された文化センターへ行ったのですが、残念ながら資料はありませんでした。

小山城に関する資料は、小山駅の観光案内所にあるそうです。

小山駅も行ってたのに!!

観光案内所は気づきもしなかったです。

 

 

 

 

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【小山城跡(城山公園)】
所在地:栃木県小山市城山町1-1
アクセス:JR「小山駅」より徒歩13分
御城印:無
駐車場:有

【小山御殿広場・小山評定跡石碑】
所在地:栃木県小山市中央町1-1-1
アクセス:JR「小山駅」より徒歩6分
駐車場:有(小山市役所駐車場)
(※2020年8月21日付の情報です。)

沼田城址/沼田公園(群馬県沼田市) ~群馬の珍スポと城をめぐる旅 3/4~

【2020/08/14 ぶら旅コース】
恐怖の洞窟名胡桃城址沼田公園赤城高原SA(上り)

 沼田城

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みなかみ町から沼田市へ移り、沼田公園へ。

真田氏と北条氏が取り合っていた、沼田城にも行ってみることにしました。

 

 

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沼田城は天文元年(1532年)頃、沼田氏により築かれました。

北陸から関東への要衝の地であったことから、

上杉氏・北条氏・武田氏など戦国大名による、争奪戦が繰り広げられたと言います。

 

 

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秀吉の小田原攻めにより北条氏が滅亡すると、沼田領は真田昌幸に返還されます。

そこで昌幸は沼田城を嫡子の信幸(信之)に与え、自身は上田城へ移りました。

信幸は長い戦乱で疲弊していた沼田領内の復興につとめ、

年貢の減免、田畑の開拓、町割などを行い城下町の基盤造り、

そして、五層の天守閣や櫓、門などを建造し、城郭の整備も行いました。

 

 

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江戸時代、沼田城は廃城となり破却され、堀も埋められてしまったため、

建物などはほとんど残っていません。

現在は、本丸・捨曲輪と二の丸・三の丸跡の一部が沼田公園となっています。

桜やツツジなどの花が楽しめ、スポーツ施設も充実した公園です。

 

パンフレットに見所が紹介されていたので、そこを中心に歩いてみました。

 

 

鐘楼

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【園内地図:E】
鐘楼は、明治31年頃旧沼田町役場の裏手に建てられ、時を告げていましたが、昭和58年に公園に再建されました。
城鐘は2代藩主真田信吉が鋳造し、時を告げていましたが、現在はレプリカを用いており、実物(県重文)は沼田市歴史資料館(テラス沼田2階)に展示しています。
(出典:パンフレット)

 

 

 西櫓台 石垣・石段

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【園内地図:D】
御殿桜のある所が西櫓台跡です。そこには真田時代の石垣と石段を見ることができます。天和元年(1581年)真田氏5代藩主信利が改易とされ、その時城は破却となりました。その後再建されることはありませんでした。
(出典:パンフレット)

 石垣の上には沼田市のシンボル的存在、

「御殿桜」と呼ばれるエドヒガンザクラがあるそうなのですが、、、

まったく見ていませんでした。。。

 

 

 平八石(首さらし石)

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【園内地図:A】
沼田平八郎景義は、沼田氏12代顕泰と側室の間に生まれました。沼田氏内乱で越後(一説では会津)へ逃れた平八郎は流浪の末、東上州女渕で再起の機をうかがい、天正9年(1581年)、沼田氏再興の兵を起こし、再興を目前に伯父の金子美濃守などの手によって水の手曲輪の露と消えた。
平八郎の首をさらした石が今に残ります。
(出典:パンフレット)

 

 

 ビューポイント

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【園内地図:Aの先】
谷川岳武尊山、三峯山、戸神山などの山々を眺めることができます。
また、名胡桃城方面も見る事ができます。
(出典:パンフレット)

ここは見晴台のようですが、木が伸びすぎて何も見えませんでした・・・。

沼田城は段丘上の崖っぷちに築かれたお城。

その所以か「天空の城・天空の城下町」と呼ばれているようです。

それならなおのこと、景色が見られないのは残念です・・・。

 

 

 天狗堂

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【園内地図:C】
このお堂にある天狗面は、昭和34年11月に迦葉山の大天狗面の分身として沼田市観光協会が製作した。顔の長さ3メートル、顔の幅2メートル、鼻の長さ1.4メートル、重さ1トンで木彫りの天狗面としては日本一の大きさを誇る(彫刻者:吉沢俊三郎氏)。同年、市内の祭りに初めて天狗踊りの行列が登場し、全国でも稀な行事として賑わいを見せた。
天狗面は迦葉山弥勒寺の鎮守である中峰尊者の化身だといわれる。
弥勒寺は嘉祥元年(848年)に創建され、康正2年(1456年)に天巽慶順禅師によって曹洞宗に改宗した。禅師に随行した弟子の中峰尊者は数十年間に渡り布教と伽羅の造営に尽くした。禅師が大盛禅師に住職の座を譲ると、「吾迦葉佛の化身にて己に権化化行は終わった。よって今後は永くこの山に霊し末世の衆生を抜苦与楽せん」と誓願して案山峰から昇天し、後に天狗の面が残されたと言われる。それを中峯尊と称して祭り信仰を集めている。
現在、弥勒寺には地元商工会の有志が奉納した顔の長さ6.5メートル、鼻の高さ2.8メートルの日本一の大天狗面が安置されている。
(出典:園内案内板)

 お堂の中を覗くと、大きな天狗の面を見ることができます。

とても大きく、お堂内が天狗でギュウギュウでした。

こんな小さな扉から、どう出し入れするのか・・・?

弥勒寺の天狗面はその倍の大きさ、、、これも是非見てみたいですね。

 

 

 天守跡・大手門沓石

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【園内地図:Hの手前】
英霊殿の東側が天守跡推定地です。
英霊殿鳥居付近で大手から移された大手門沓石が見られます。
真田時代の絵図には五層の天守が描かれており、天守は9間×10間(約18m四方)の方形で石垣の高さは8間(約16m)あり天守推定地の付近では金箔瓦も発見されています。江戸城天守が焼失すると、関東で五層の天守を持つ城は沼田城だけの時もありました。
(出典:パンフレット)

写真の右上にある階段の奥が天守跡推定地だと思います(見てない)。

 

 

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案内板には絵図の一部が紹介されていました。

城を建てる際には、幕府に城の地図を提出しなければならなかったそうです。

 

 

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ちなみに、英霊殿とはこちらです。

 

 

 本丸堀跡

【園内地図:P】
この堀跡は本丸から二の丸の間に作られたもので、堀幅12間(約24m)×堀高3間(約6m)と正保城絵図に書かれています。写真中央よりやや上にある石垣は、当時のものです。
平成27年の調査で多くの瓦と石垣の下段部分、裏込め石が見つかりました。
(出典:パンフレット)

写真ありきの説明文ですが、写真を撮り忘れていました。

ここは、発掘調査をしているような跡が見られます。

 

* * *

 

こんな感じで園内を一周しました。

現在は公園となっている沼田城址ですが、

パンフレットのおかげで城の面影を見る事ができました。

 

 

御城印

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案内所で御城印をいただきました。

通常版が3種類、月限定が3種類ありました。

 

 

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この辺のお城はおまけ付が多いですね。

沼田城では、桜の御城印ポストカードをいただきました。

 

 

 

 

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【沼田公園】
所在地:群馬県沼田氏西倉内町594
アクセス:JR「沼田駅」より徒歩15分
営業時間:9:00~17:00、~16:00(冬季)(観光案内所)
定休日:年末年始(観光案内所)
御城印:有
駐車場:有
(※2020年8月14日付けの情報です。)

名胡桃城址(群馬県みなかみ町) ~群馬の珍スポと城をめぐる旅 2/4~

【2020/08/14 ぶら旅コース】
恐怖の洞窟名胡桃城址沼田公園赤城高原SA(上り)

 城めぐり

珍スポットを楽しんだ後は、城めぐりで歴史の勉強です。

S氏は戦国時代に詳しいので、一緒にめぐるといろいろと勉強になります。

私はというと『戦国無双』というゲーム(しかもPS2止まり)にハマった程度で、

詳しいことはまったくわかりません!

戦国時代にはものすごく興味があるのですが、

どこからどう勉強したらいいのか困っているところです、、、。

 

 

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そんなことを言っていたら、戦国無双4のラッピング自販機を見つけました!!

真っ赤に塗られた自販機には、六文銭の家紋が描かれています。

そう!!

今回は、真田氏ゆかりのお城にお邪魔してきました。

 

 

名胡桃城址

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プラムの国から車で10分、名胡桃(なぐるみ)城址へ。          

上州真田三名城(↓)のひとつで、『続100名城』にも選ばれています。

岩櫃城も行っておけばよかったですね。。)

 

なんでもこのお城、

豊臣秀吉が天下統一を果たすきっかけとなった場所だそうで、

日本史上でもなかなかの重要ポイントかと思われます。

 

 

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名胡桃城は室町時代

沼田氏の一族といわれる名胡桃氏が館を築いたのがはじまりと言われています。

そこへ真田昌幸が、沼田城を落とすための前線基地として城を築きました。

 

沼田城をめぐり争っていた真田氏と北条氏。

一度は沼田城を手にした昌幸でしたが、その後も両者の争いは絶えません。

そこへ、秀吉が仲裁に入り、

利根川を境に東部一帯を北条に、西部一帯を真田に」

という裁定を下しました。

これにて、沼田領問題が収束したかのように思えたのですが、、、

北条氏側は不法に名胡桃城を攻略するという事件を起こします。

この時、大名間の私闘を禁じていたため、それを知った秀吉は激怒。

小田原攻めを行い、北条氏は滅びる結果となりました。

この事件を皮切りに、豊臣秀吉は天下統一を果たし、戦国時代は幕を閉じます。

 

その後、真田信幸が初代沼田藩主となり、名胡桃城は役目を終え廃城。

城として機能したのは、わずか10年だったそうです。

 

 

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そんな歴史を持つ、名胡桃城を歩きます。

案内板があった場所を中心に、かなり大まかにご紹介します。

 

地図によると、三郭・二郭・本郭と縦一直線に並んだ造りになっています。

このような造りを『連郭式』と言うそうです。

山など広く配置できない場所に多いタイプだそうです。

 

 

  馬出

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城の出入口。

出入り口の手前に土塁や堀を作り、

城内から出撃する際に、攻撃・防御をより強固にする施設だそうです。

 

 

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写真はただの道ですが、当時はこのようになっていたのではないかとのこと。

城内に侵入し難い・城内が見え難いといった効果があったそうです。 

 

 

 三郭

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三郭堀切。

 

 

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三郭イメージ図。

 

 

 二郭

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南虎口。

二郭への出入り口です。

 

 

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虎口付近は道がS字になっており、移動しにくいようになっています。

 

 

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掘立柱建物址。

 

 

 

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打たれた杭は、建物の柱の跡のようです。

建物と土塁の間には、排水溝として使われていたとする溝があるそうです。



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北虎口。

 

 

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 この先の道もS字になっていました。

 

 

 本郭

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長い木の橋を渡ると本郭です。

城の中心部ですね。

 

 

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本郭には、石碑がありました。

 

 

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本郭の両側の崖が大きく崩落していることから、

当時はもっと広かったと考えられるそうです。

天守がないことは確かですが、虎口や建物の状況はわかっておらず、

地図のみイメージ図はありませんでした。

 

 

 ささ郭

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本郭の先には、ささ郭。

 

 

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城の主体になる本郭が外に対してむき出しにならないよう設けた郭だそうです。

 

 

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いい眺め。

確かに、外からも丸見えです。 

 

 

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名胡桃城は決して大きな城ではなかったようですが、、

このように見渡しが良く、周りが崖のため攻め込まれ難い、

そして、上野・越後・信濃の三国に通ずる道が近いなど、

軍事的にはかなり良い立地条件だったそうです。

 

 

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小さな石の祠がありました。

 

 

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屋根には六文銭の家紋のように、お賽銭が置かれていました。 

 

* * *

 

建物は残っていませんが、

城内はとてもきれいに整備・復元されていました。

ポイントには案内板で詳しい説明があり、城素人にはとても親切です。

城跡は24時間開放状態です。

マムシが出るようなので、注意です!!

 

 

 

御城印

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最後に御城印をいただきました。

御城印は、和紙と木の2種類。

木はこの日の前日から発売されたとのことで、そちらをいただくことに。

本当に木です!

ちょっと曲げたら、パリッと折れてしまいそう。。

木のいい香りが漂います。

 

真田街道六城攻城記念御城印

 真田氏ゆかりの6城をめぐると手に入る、記念御城印もあります。

 

真田領四城攻城記念御城印

六城バージョンに移行のため、令和3年3月31日で終了。 

 

 

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御城印は、入口の案内所にて。

中は小さな資料館にもなっています。

 

 

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受付で、六文銭ステッカーをいただきました。

 

 

 

 

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【名胡桃城址
所在地:群馬県利根郡みなかみ町下津3462-2
アクセス:JR「後閑駅」より車8分$
営業時間:9:00~16:00(案内所)
定休日:木曜日(案内所)
御城印:有
駐車場:有
(※2020年8月14日付けの情報です。)